野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四章 野口整体とユング心理学― 心を「流れ」と捉えるという共通点 三 4

 今回から、金井先生の指導例を基に(次回紹介)、意識・感情・無意識がつながりを取り戻す意味について、ユング心理学の視点から述べていきます。

 4 意識・感情・無意識をつなぐ身体感覚

 私は、人間の全体を「意識・感情・無意識」と表現してきました。これは、「心・情動・身体」と言い換えることができます。ここで言う心は「意識できる心」で、身体は「意識できない心」無意識です。この、意識(心)と無意識(身体)の間に「感情(情動)」があるのです。

 このような表現を拡げると、意識の中心は頭にあり、無意識の中心は骨盤にあると言えます。従って、感情が滞ることは、意識と無意識、心と身体が分断されることになるのです。

 これは、溜まってしまった感情エネルギーが自我を支配している状態で、これが「コンプレックス」です。

 この状態は、主体性という面からは「客観的」身体と呼べるもので、自分の体でありながら意志が及ばない(意志が行動にならない)、また意欲が生じない身体です。

 この「主体性が脅かされている」、つまり溌溂と自分を発揮することができない状態とは、みぞおち(上腹部)が硬くなっている身体なのです(この意味で身体は、上腹部の上と上腹部、そして臍から下という三つに分けて観ることができる)。

 それで師野口晴哉は「感情はみぞおちにある」と繰り返し語っていました(感情がノーマルであればみぞおちは柔らかく、意識と無意識に分断は無い)。

 情動(感情)を無視すると、身体と心のつながり(体が現在のようであることの心理的理由)は分からないものです。自身が体験した感情を意識(理性)で「無いこと」にしようとすると、そのような意識のはたらきによって、身体感覚を鈍らせることになるのです。従って、理性に偏って発達した現代人は、感情エネルギーに支配され易くなっているのです。

 また、心と身体が感情によってつながっていることを知っても、身体感覚が涵養されないと、単なる知識となるだけで、心と身体が一つであること(身心一元)は、身体感覚によってのみ本当に理解できるものです(身体感覚は、感情に対する気付きの役割)。言い換えると「体得する」という他はないのです。

 身体感覚が敏感でないと、情動(感情)が起きた時にその力に呑まれたままになり、その後支配されてしまうのです。不快なことだから「忘れよう」と意識で処理(理性で対処)したつもりでも、感情は理性よりも圧倒的にエネルギーが強いからです。

 5(次回)の指導例では、腰痛が起きた背景に、感情が抑圧されたことによって、意識と無意識が分離している状態があること、また「腰痛」という病症を、無意識が意識との統合を取り戻そうとするはたらき(目的論的機能)と指導者が理解し、活元運動の誘導によって、これを手伝うことについて述べて行きます。