野口整体と西洋の「心身二元論」的思考― 東洋と西洋の人間観の伝統の相違
心身二元論とは、人間を精神と肉体に分けて捉え、精神とは「理性」であり、理性が人間の魂(心)とされました。心身二元論はデカルトによって確立されましたが、歴史的に西洋思想の伝統には二元論(二分法)的な考え方が強く存在していました。
このような歴史から、西洋人にとっては「身体の訓練が同時に心(魂)の鍛錬を意味し、身体を通じて人格の向上を図る」という考え方は、容易に理解できるものではないのです。
例えば、近代スポーツにおける様々な訓練法は、身体的能力(限定的には四肢の筋肉の運動能力)の向上を目的としたものであって、理論的な考え方(思想)として、精神の訓練、人格の向上という意図は含まれていないのです。このような「二元論的思考」の確立の基に、近代という時代は築かれたのです(医学における二元論的な見方に対する反省として心身医学が生まれた)。
これに対し野口整体の考え方は、対症療法(病気になったからこれを治す、治せば元通りになるという考え方)ではなく、普通のレベルよりももっと健康の度合いを高めて、精神と身体の能力をより高いレベルまで追及していくところに本来の理念があります。
ここには、「気」という概念が不可欠です。
現代において理解ある西洋人にとっては、西洋人の心を蝕んでいる「心身二元論」を克服する上で、「修行・身体行」は意義深いものと捉えられています。
近代科学の発展とともに、物質的な価値が高められましたが、現代は、このような傾向が極端になってきた時代です。心か体か、という二者択一的な二分法を克服し、心と体の調和のとれた発達を図る上で、東洋の「身体行」の伝統は、今日重要な価値を持つものとなっています。
敗戦以前の日本では、東洋宗教である儒教・仏教・道教、そして古来の神道、これらが渾然一体となって「道」が形成され、人の生きる規範となっていました。そして、道を実現するため、修行・修養・養生という道筋が伝えられていたのです。
このような伝統の上に成立した野口整体は、身心一元性の実現と追求を目指すものです。