第五章 野口整体と心身医学の共通点一8①
人間の「精神的成熟」を目的とする東洋の修行法
― 呼吸法の訓練をする瞑想法は自律系機能との対話
金井先生は生前、「修行」という言葉の意味が通じなくなった…とよく言っていました。それが、未刊の原稿の内容に取り組む動機になったのですが、それは身体の行は自分(心と体)を成長・発達させるためにある、ということを理解できない人が多くなってきたことが大本にあります。
これが分からないということは、野口整体の枠を超えた東洋文化の根底にあるものが分からないということなのです。
湯浅泰雄氏は『気・修行・身体』(上巻第三章より引用)で、
「修行」あるいは「行」という日本語の語感は、身体の訓練を意味するとともに、それを通じて人間としての精神、つまり自分の心そのものを鍛錬する、というような意味合いをもっています。
…しかし西洋人にとっては、このような考え方は、必ずしも容易に理解できるものではないようです。
…東洋の伝統では、心と身体を不可分のものとしてとらえるとともに、身体の訓練は、精神と人格を向上させる技術的手段として積極的な意味と価値を与えられてきました。
と述べています。このような東洋の修行法(瞑想法を基礎とする)の意味を神経生理学的な視点から論じたのが今回の内容です。
湯浅泰雄氏は、呼吸法の訓練から始まる東洋の身体行(修行法)について、次のように述べています(『気とは何か』Ⅱ 人体内部の「気」のシステム)。
自然治癒力を高める
…ヨーガや気功に代表される東洋の修行法は、医学的観点からいうと、自然治癒力を高め、発達させる訓練を意味している。中国の医書では、これを「扶正」(ふせい・正しいはたらきを助ける)と言っている。修行法はそれを、気の訓練によって人間の本性を養い育てるという思想的哲学的立場からとらえているのである。
この点に関連して一つ注意されるのは、ヨーガや気功の訓練が西洋式の体操やスポーツとちがって、運動器官(手足の筋肉)の能力を高めることよりも、むしろ自律系の器官の能力を発達させる効果をねらっているということである。たとえば、このポーズは胃腸のはたらきを強める、といったぐあいである。
したがって体操といっても、手足はあまり烈しく動かさず、同じ姿勢でじっとしていたり、動作もゆっくりと行なうことが多い。西洋式の体操や運動は、運動器官である手足の筋肉の力をつよくすることにねらいがあるが、自律系の器官との関係は考えられていない。
心理面からいうと、このことは、西洋近代の身体訓練の方法には、無意識下の情動、つまり感情や本能をコントロールするという考え方が欠けていることを示している。
要するに、呼吸法の訓練から始まる心身の訓練は、ふつう意志の自由が及ばないと考えられている自律系の生理的機能にまで影響し、その潜在能力を高めるのである。
心理的側面からみると、自律神経の作用は、心の深い層に抑え込まれた情動(たとえば怒り、憎しみ、悲しみなどのコンプレックス)あるいは深い喜び、愛、平安といったプラス・マイナスの作用、つまり快・不快の感情と深く関連している。
マイナスの情動がいつもつよくなれば病的な異常状態になり、プラスの情動がいつもつよくなるようになれば、心身の健康の発達に結びつくと共に、人間としてより成熟した心理特性(心のくせとしての情動のパターン)を育ててゆくことができる。
心理面からみると、修行は、情動的コンプレックスをとり除き、より深い無意識の層にかくれている潜在的エネルギーを活性化し、それを意識のはたらきに統合してゆくことを意味する。
創造的直観のような能力は、こうした訓練によって目ざめてくる。修行はしたがって、無意識、すなわち心のより深い未知の領域にまで分け入り、その力をみずからコントロールしてゆくことによって、心身の潜在能力を高めてゆくことであるといえる。
東洋の哲学ではよく、「本然の性(註)を養う」(理気哲学)とか「仏性を実現する」というような言い方をするが、これはさしあたり、心身にそなわっている潜在的で自然な本性をより高く発達させ、実現させてゆくことを意味している。
(註)本然の性(ほんぜんのせい)宋学の性説。人が宇宙の理として先天的に賦与されている純粋至然の性。