第五章 野口整体と心身医学の共通点 二6
今回は野口整体で言う「鈍り」の問題である失体感症(アレキシソミア)についてです。
身体感覚と情動についてはこれまでも紹介してきましたが、池見氏提唱の「アレキシソミア」には、感情の言語表現に注目する欧米とはまた違う、東洋的な心の理解が表れています。
身を先立てる日本の伝統から生まれた「身心医学」用語・失体感症(アレキシソミア)
感情の気付きや表現に乏しい傾向(失感情症)は、「身体感覚」(異常に対する気付き)も低下しているものです。
感情と身体とは密接な関係にあり、特に未分化な感情(のエネルギー)は身体に滞っているもので、感情が意識化できないことは身体感覚も鈍い、ということなのです。
池見氏は、心身症患者に見られるこの傾向に対し、1979年、「失体感症 ― 自らの身体感覚やその表現に乏しいこと=失・身体感覚・症(アレキシソミア)」という概念を提唱しました。
意識(理性)を先立てる西洋に対し、身体性を重んじる日本的伝統に基づけばこそ「身体感覚」が重要視されるのです。
池見氏は失体感症について、次のように述べています(『人間回復の医学』)。
11東洋のセルフ・コントロール法
…身体感覚の異常に対する気づきの鈍麻(これを私は、「失体感症」と呼んでいます)が、今日の心身症の発病や経過に重要な役割を果たすことが解明されてきております。
東洋的な行法では、昔から、失体感症が重視されていたようです。すなわち、自己の身体に対する気づきを回復させることが、感情に対する気づき、さらには、自己全体へのまるごとの気づきを促すというアイデアのもとに(金井・野口整体はこれ)、いろんな東洋的な行法が行われていたようです。そこで、大脳の中で、知性の新しい皮質と、情動の古い皮質や内臓諸器官をコントロールする脳幹との間の交流をよくし、それら三者の働きを調和させることが、生理・心理・社会的な病態をもつ多くの現代の病に対する治療の基本をなすものではないかと考えられます。
池見氏は多くの臨床を通じ、心身症患者は失感情症の傾向だけでなく、人体の恒常性(ホメオスタシス)を維持する上で必要な身体感覚(暑さ寒さ・眠気・空腹感・満腹感・疲労感・身体疾患に伴う自覚など)が、鈍い傾向があることを捉えたのです。
身体感覚が鈍いために外界への過剰適応となり、さまざまな身体の不調をきたす心身症へと発展していくと考えられたのです。
このように、身体性の視点から、感情や身体への気づきが低下した状態を捉えたのがアレキシソミア・失体感症です。
11東洋のセルフ・コントロール法
近年の脳生理学の進歩によって、脳幹部にある脳幹網様体賦活系というところに、全身各所からの刺激が集まり、そこで、それらの刺激がコントロールされて、脳内各部に目ざめ信号を送ります。そのさい、(東洋的な行法による)刺激の調整の具合によっては、知性の新しい皮質の過度な興奮を抑え、脳幹あるいは古い皮質の機能を賦活(活性化)することによって、脳内の力関係の再調整に役立つことがわかってきております。そして東洋の坐禅やヨーガなどにおける瞑想によって、脳機能の調整が行なわれる基本的なからくりも、このようなところにあるものと考えられております。そうした脳機能の調和とともに、東洋的な行法では、大脳の前頭葉の営みである意志(根性)、創造(「本当の私」を生きる)、高度な情操をつかさどる働きが賦活されるともいわれます。
そこで私どもは、「自己統制法」といって、坐禅のような真っすぐな姿勢のまま椅子にかけて、両掌を太腿に置き、太腿の温感を通して手の温感を出し、両足裏の床との接触感に心を集中して、それによって両手両足が温かくて額がクールであるという「頭寒足熱」の状態をこさえ、手の温度の上昇の度合いを、温度のフィードバック装置によって、本人に知らせるような訓練法を考案しております。
…現代文明の危機の根源をなすと思われるデカルトの「われ思う故にわれあり」という、知性を人間存在の最高の意味として、情動や肉体を軽んじる物心二分、心身二分の哲学にもとづく現代文明の副産物である失感情症、失体感症の問題に対して、私どもは「われ思う、われ欲求す、われ感ず」といった脳の全体的な調和によって、まるごとの自己回復を促すことが、現代における健康管理と人間回復の基本であると考えております。
脳には身体各部(諸器官)の異常を敏感に感じとって、それを正常化しようとする「自己正常化の働き」があります。
池見氏は、失感情症の人たちが、このような体の声を聞くための身体感覚も失われていることを捉え、失感情症の奥にある「失・身 体感 覚・症」という概念を提唱したのです。