野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第五章 野口整体と心身医学の共通点 三(補2)

(補足2)金井省蒼(蒼天)先生が捉えていた野口整体の宗教性

  金井先生が亡くなる直前の原稿にはありませんが、前年の原稿にはこの指導例の後に鈴木大拙『禅とは何か』(春秋社)からの引用が入っていました。

 これについての文章はないのですが、金井先生はときおり「野口整体は宗教である」と言うことがあり、それに怪訝な顔をしたりする人や、「怪しいと思われるからそういうことを言わない方がいい」という人が意外といることが、先生としては不納得だったようです。

 また「野口整体は禅である」というのも、金井先生は私が入門する以前から説いていたのですが、なかなかつながりが皆に理解されないと言っていました。

 近代科学と東洋宗教、というテーマも、「宗教」という言葉に嫌悪感や拒否感が先入主としてある人には、なかなか受け入れられませんでした。

 それで、金井先生はよく「わしが言う宗教というのがどういうものかよく分かっとらんのだ!」と言っていました。この引用文には、金井先生の意味する禅、宗教というものがよく表れていると思います。

(ブログ用改行あり)

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 昭和二年から三年にかけて大阪妙中禅寺にてなした私の講演の筆記をまとめたのがこの書である。

第四講 証三菩提を目的とする禅

 禅というものは具体性と創造性を帯びたものである。…個人の体験ということの本当の意味に徹する人には、その人の生き方には人のことを真似したものがない。天地間はその時その時に創られてゆくといってもよろしい。その人のやることはことごとく創造性を帯びているといわなければならぬ。

 それで人がやっているから、自分もそうするということでなくして、その人のいわゆる、やることはその心の中から発露したものである。これは子供を教育するという上においても、ことに宗教というものを人に伝えるという点においても、やはりこの創造性ということを軽視してはならないのである。

 科学というものは、まことに結構なものである。われわれの生活というものが便利になり、物が安直になり、昔は大名か大金持ちでなければ、手に入れることもできなかったようなものが、今はわれわれが誰も平等に口に味わい、身に着けていることができるのである。その点はまことに結構であるが、それと同時に人間がことごとく人形になってしまった、機械になってしまった。これは私は近代文明の弊害であると思う。

 機械を使うというと、人間が機械になるのではないことはいうまでもないが、人間はまた妙にそれに使われる。使うものに使われるというのが、人間社会の原則であるらしい。人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう。近代はますますひどくなって、その幣に堪えぬということになっている。

 この幣に陥らざらしめんため、宗教がある、宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出してゆくことを教えている。宗教によってのみ、近代機械化の文明から逃れることができると私は思う。

 それでますます宗教というようなことを、どの方面からでも説明のできるような具体性と創造性を兼備したこの禅のごときものを、ますます今の世界に弘めなければならぬ、ただインド的の禅定というもののほかに、また中国的活動の禅、創造性の禅を鼓吹したいと思うのである。

 またそれと同時に、物を離れて物を見る、この機械となっている世界を離れて、別に存在する世界を見る、すなわち物の中にいて物に囚われぬ習慣をつけておかなければならぬと思う。

 朝から晩まであわただしい、機械化した生活から一歩退いてその圏外に立って、この世界を見るということができねばならぬ、すなわち坐禅をしてみるというだけの余裕ができなければならぬと思う。そういう機会を忙(せわ)しい忙しいといいながらも、やはり何とかして作っておくほうがよかろうと思う。