野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第六章 生き方を啓く整体指導― 感情の発達と人間的成長一 4

 自分の中で起こった情動を主観的にどう捉え、判断するかにおいては、子どもの時、両親など周囲の大人が、情動が起きた時どのような反応をしたか、また子どもだった自分が大人の反応をどう受け取ったのかが重要な意味を持っています。

 要求が通らないときの、泣いたり怒ったりという子どもの不快情動に、周囲の大人が拒絶や否定、無関心を示すと、子どもは愛情を失うのを恐れて、早くに情動を抑圧するようになるものです。

 子どもは、叱るなど言葉や行動にしたことだけではなく、親が表には出さないつもりでいても、ふっと浮かんだ表情、緊張感などから非言語的に、潜在意識で感受しています。むしろ、親が自身の情動をどうとらえているかが子どもに無意識に伝わると言った方が良いでしょう。

 それが繰り返されると、周囲の大人の情動に対する態度を内在化して、自分の中で起きている情動を恐れたり、他者の顔色を過剰にうかがうようになるのです。

 それでは今回の内容に入ります。 

情動を通じて学ぶ「身体感覚」と感情

「失感情症(アレキシサイミア)」の概念は研究者の間で検討され、まとめとしての第一に、

 自分の感情がどのようなものであるかを言葉で表したり、情動が喚起されたことによってもたらされる感情と身体の感覚とを区別したりすることが困難である

ことを挙げています。

 これは、身体感覚(=情動による身体的変化を感じる能力)とその感情がどのようなものか、を意識化 ― それは学習すること ― がされていない(=身体感覚と感情が未分化なままである)ことを意味しています。

 情動(emotion)が起きた時の身体的な変化は、主観的な(当人にしかわからない)気持ち=感情(feelings)の変化とも結びついているものです。

 この感情の変化について、「腹が立った」とか「悔しい思いをした」などと、言葉で表現する(意識する)ことを一般的に行えるものです。しかし、失感情症の傾向にある人が素直に表現できないことは、感情を認識し表現することが未学習のままで、心は「閉鎖系」となっている(刺激が入力し情動(感情)の発生はあるが、感情として意識できず「感情表現」としての出力ができない)からです。

 乳幼児は「情動はあるが感情は未発達である」ことは皆さんお分かりになることと思います。

 赤ちゃんは生れた時、意識としての感情は「快・不快」のみという程度で他は混沌としています。これ以外の感情、喜びや怒り・哀しみや楽しさに始まる様々な感情は、母親を中心とした保育者(養育者)との係わりの中で心身に形成されていきます。

 このように、「全体として」の混沌とした状態から、様々な機能が分かれてくることを「分化(differentiation)」と呼び、全体が混沌とした状態を未分化(undifferentiation)と呼びます。乳幼児期は、身体や思考、情緒などが未だ分化していないのです。

 感情が分化している人は、外からの刺激に対して、適切な反応を示し穏やかな行動で済むものですが、感情が未分化な人は、直線的で爆発的な反応を示すか、あるいは、落ち込んでしまい動きが取れなくなるかのどちらかの傾向があります。

 このような感情の未分化な人は、他人との共感関係や感情の共有化(思いを伝える・違いを理解し合う)が図り難いことで、人間関係が上手くいかず、ストレスを感じ非社会的な行動として、ひきこもりや不登校を起こしたり、反社会的な行動につながったりします(師野口晴哉「いきなり刺す人が出てくる」)。

 感情の未分化の問題は親子(または保育者との)関係に尽きます。情緒的な交流が不足することで、親の感情(愛情)が伝わらず、未分化なままとなるのです(親の感情が未分化では(=感性・物事に感じる能力、感受性が低くては)話にならない)。

 先の失感情症の概念のまとめにある「区別したりすることが困難」とは、成長する過程で、身体感覚を捉え感情を認識(言語化)すべきなのが、未分化のまま(混沌としたまま)放置されてきたというべきです。

 感情が未発達であることは大人になってからの人間関係に大きな影響を与え、自分の思いに気付かないことで、他人の思いにも気付くことができないことにつながるのです。