野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第七章 禅文化「道」としての野口整体― 瞑想法(セルフコントロール)と心理療法 一 1②③

体を整えることで心の力を啓く整体指導― 人生上の問題は自己の「心の力」で解決される

②「心の力」は身体にある

「天風哲学」(下巻で詳述)を創始した中村天風師は、チベット仏教「カルマ・カギュ派(註)」の第十五世管長・カリアッパ師(カルマッパ・カギャブ・ドルジェ 1871~1922年?)の下で修行を積み、心を啓き、悟りを得ました。

 天風師は次のように述べています(『心に成功の炎を』第九章)。 

【訓言三】

…あなた方はたいてい、何とかして自分の現在の失望、落胆したことを取り戻そうと、その出来事なり事情を解決するほうへ手段をめぐらすことが先決問題だと思うだろう。それが間違いなんだよ。

一番必要なことは、もしもこの出来事に対して意気を消沈(しょうちん)し、意気地をなくしてしまえば、自分の人生は、ちょうど流れの中に漂う藁くずのような人生となって、人間の生命の内部光明が消えてしまうということをしんから思わなきゃいけないんだ。

失望や落胆をしている気持ちのほうを顧みようとはしないで、失望、落胆をさせられた出来事や事情を解決しようとするほうを先にするから、いつでも物になりゃしない。

つまり順序の誤りがあるからだめなんだ。

…天風哲学は厳かにこう教える。およそ人生の一切の事件は、ほとんどそのすべてが自己の心の力で解決される。心の力こそは生命の内部光明である。この光明こそは、いかなる場合があっても、…我が命の中に輝(かがや)かしていかなきゃならないのが、人間として自己に対する責任であるということを忘れちゃいけない。

 

 と、人生上の問題は自己の「心の力」で解決されると説いています。

この「心の力」とは身体(潜在意識・無意識)にあるのです。

 東洋宗教(禅)文化には「調身・調息・調心」という行法がありますが、これによる「心の力」、また「肚」というもの(=無意識・魂)のはたらきに、現代の日本人は無関心なのです。

 このことを、師野口晴哉は「意識だけの世界で呻吟(しんぎん)して(あえいで)いる」、と語っていました。

 さらに言うと「意識(頭)が心だと思うようになった」ということで、現代人は、考えることのみが心のはたらきと思い込むようになってしまったのです(感じることは心ではなくなった)。これが、理性至上主義の弊害です。

 これは、敗戦後の日本社会全体の変化であり、遠くは明治以来の近代化によるもので、背景に近代科学があるのです(西洋近代において、「心とは理性という意識」となった。近代科学の問題点については上巻『野口整体と科学 活元運動』第一部で詳述)。

(註)カルマ・カギュ派

 チベット仏教には、ニンマ派カギュ派サキャ派ゲルク派の四大宗派があり、その一つカギュ派の中の最大支派がカルマ・カギュ派カギュ派チベット仏教の中でも最も密教色が強いと言われる。

ダライ・ラマ十四世(1935年~ 、在位1940年 ~)はゲルク派。17世紀以降、歴代のダライ・ラマチベットの政教双方の最高指導者となったのにともない、ゲルク派チベット仏教の最大宗派となる。 

野口整体愉気法は無意識のはたらきを活用すること

 ②の「自分が直面する問題に頭だけで取り組む、心を落ち着けることをしないで事情を解決する方へ手段をめぐらす、身体を調えることをせず頭で対処しようとする」ということを、個人指導の「愉気法」の場で考えてみましょう。

  一歳半ほどになる子どもを持つ母親の個人指導でのことです。この人は子どもが胃腸風邪を患い、下痢や吐いたりして、食事や睡眠などで普段と異なる子どもの様子に疲れていました。

 この人の背骨の観察からは「不安になり腰が抜けて、不安と闘う、また、この背骨(潜在意識)の状態では病気をしている子どもを受け取れない」という様子が伺えました。私は愉気整体操法、活元運動を通して、始めに観察した状態から整った(彼女の身心が「不安に支配されるというコンプレックス」を解消した)ことを確認し指導を終えたのです。

 実は母親は、子どもを病状から早く脱出させようと愉気を試みていたのです。それで指導を終えた時点で「触れると子どもが嫌がって、愉気をさせてくれない。不安でどうしたらよいか」と私に尋ねました。

 この時私は、「愉気する」ことについて、次のように答えたのです。

「今日のように偏りが強いあなたの状態に、私が動揺したり、混乱していたりしたならば、今のような結果(彼女の体が整うこと)は生じないのです」と。

これを聞いた母親は、即座にこの意味を理解しましたが、これが、「心の力で解決される」ことであり、「「心の力」とは身体(潜在意識・無意識)にある」ということなのです。

 愉気法は病状に対立して(挑戦的に)行うものでなく、無心に行い、時を待つことです。ましてや、不安を押し付けることはなおさらのことです。

 愉気法を、天風師の教える「生命の内部光明」として身につけるには、天心であることなのです。