第七章 禅文化「道」としての野口整体― 瞑想法(セルフコントロール)と心理療法 三2②
明瞭な意識(無意識と統合された)を持って生きる
② 現代人に必要な意識と無意識を統合して生きる「道(タオ)」
一般的な辞書では、天心は「天の意思」などと表されていますが、「我執を離れ、全てを天 ― 大いなる意志 ― に委ねる」ことです。これは「人事を尽くして天命を待つ」という心でもあると思います。
個人指導に通っている人で、時折、上丹田が曇る人がいます。こんな時、よく話を聞いてみますと、最近、精神的に動揺したことがあり、近い将来に対して「失望」を抱いたことが分かります(動揺は意識されているが、失望は意識されていない)。
それは、何かの試験に「通らないのでは」というような思いや、親の病状に対する不安なのですが、実際にそうなるかは別として、「一瞬でも、そのように強く思った(先行きに不安になるという情動があった)」ことで、天心が曇るのです。
上丹田は、仏教用語では「白毫(びゃくごう)」と呼ばれ、釈尊が悟りを開かれた時には、白毫がひらけて光を放ったという伝説があるようです。英語では「サードアイ(第三の目)」と言われます。
私は、「心(無意識)のサーチライト」と言えるのではないかと思っています。ここが曇っていることは、サーチライトが点灯していないため、先が良く見えず、将来に対して明るい気持ちで臨むことができないのです。
(上丹田の位置にある大脳の前頭葉は、ストレスや不安などの不快な感情を強く感じた時に活動する場所とされている)
ユングは、『黄金の華の秘密』と出会ったことを通じて、「心理療法」が西洋人にとっての「道」となることを目指し、「自己」というものを見出していきました。
湯浅泰雄氏は東洋の伝統の持つ現代的意義について次のように述べています(『宗教と科学の間』名著刊行会)。
序章 哲学の再生
…私がユングに関心をもつようになったのは、彼が東洋の知の伝統 ―― たとえばヨーガ・道教・仏教など ―― について、現代人の心の問題に即して新しく見直す道を示していたからです。私は彼の研究にみちびかれて、東洋と西洋の知の伝統の性質のちがいについて考えてきました。彼のいうところでは、西洋の知は常に自己の外なる世界へと向かっているのに対して、東洋の知というものは常に、自己の内なる世界へ向けられてきた、と言います。大きくみれば、このちがいは、物についての知と、心(あるいはたましい)についての知の対比とみることもできるでしょう。私は、彼のそういう考え方にみちびかれつつ、医学について研究し、心と身体の関係、さらにその基礎にある精神と物質の関係について考えてきました。
ヨーガを実践し道教に学んだユングは、西洋の人々に「無意識を育てる」ことの必要性を感じ、これを「心理療法」としたのです。このことは、近代化された現代の日本においても、「自我」や「自己」の、西洋との伝統の違いを考慮した上で、十分に必要なことなのです。