終章 瞑想法(東洋)と心理療法(西洋) ―「生命の原理」を理解し、無意識の世界を啓く 二1
ここから二に入りますが、二は野口晴哉師、そして金井先生と同様に近代という時代と近代化が人間に与えた影響について取り組んだユングが主題として取り上げられています。
金井先生は、上巻で湯浅泰雄氏について次のように紹介しています(第三章一)。
湯浅泰雄氏は「宗教修行」の問題を中心とした日本思想史の研究家です。氏は、東洋思想の伝統に流れている心身観(心とからだの関係)の捉え方に関心を持ち、哲学・心理学・医学等(近代科学)の立場から現代的観点における「東洋の心身論の意義」について研究しました。
また、東洋の智に強く関心を持った深層心理学者のユングを研究しました。
ユングは「西洋の知は常に自己の外なる世界(ものについての知)へと向かっているのに対して、東洋の知というものは常に、自己の内なる世界へ(心また魂に)向けられてきた」と、東洋宗教の世界を西洋文明に相対化して理解したのです。
氏は彼に導かれ、西洋と東洋の知の伝統の性質の違いについて研究し、自己の「内なる世界」を探求するため「身体」に取り組む、という東洋的「身体論」を展開したのです。
二 意識と無意識の統合性を保つ生き方
野口晴哉の「全生」思想とユングの「個性化の過程」という思想―「無意識(魂)」に蔵された可能性を拓く
湯浅泰雄氏は、『身体――東洋的身心論の試み』という著書を、アメリカとフランスの友人たちに訳してもらった際、彼らが、「修行」という言葉を翻訳する上で、苦心したことを述べています(『気・修行・身体』第一章)。
それは、「行」という日本語に含まれている「身体の訓練を通じて心(精神)を鍛(きた)え、人間としての人格の向上をはかる」という意味内容は、ヨーロッパの言葉(米・欧での言語)ではなかなか表現しにくいものだからです。
西洋にもキリスト教の(修道生活での)身体行はありますが、これは「霊肉二元論」に基づくものです。古代ギリシア・プラトンに始まる「霊と肉」という二分法的考え方は、キリスト教の霊肉二元論に受け継がれました。
これは、霊は神に通ずる原理であり、肉は罪の原理とされるもので、東洋宗教の修行法の伝統である「身体の訓練は、精神と人格の向上を意味する」という考え方は、西洋には無いものでした(霊肉二元論は、近代になってデカルトの「心身二元論」として確立する)。
それで、英語訳では「カルティベーション(cultivation・開墾)」という語を当てている、とのことです。
この「開墾」という言葉は、畑を耕したことのある私には適切な訳だと思われます。それは、これまで山林であったところに畑を拓く場合、木を伐(き)って根を掘り、石を取り除き、土に鍬(くわ)を入れます。
こうして畑づくりをすることが開墾ですが、このようにすることで、野菜などを収穫出来るわけです。耕すことで恵みがもたらされるのは、人間の「身体」も同じで、畑を耕して収穫を期待するように、「身体を耕す」ことは、「無意識(魂)」に蔵された可能性を拓くためなのです。
修行とは「身体の諸能力を訓練することを通じて、自分の魂の中から新しい自己を目覚めさせる」訓練なのです。
このような「修行・開墾(耕し)」という東洋的身体行の伝統に立脚するのが、野口整体です。
活元運動、そして整体操法は、心の良きはたらきを発揮するために身体を耕すことです。
ユングは、個人に内在する可能性を実現し(その人が持っている可能性を開花させていき)、その自我を「高次の全体性(自己・Self)へと志向せしめる努力の過程」を、「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んでいます。
「個性化」は換言すると、「自分だけに与えられたかけがえのない意味を人生に見出し、それを全うして自分らしく生きること」です。これが、ユングの「自己実現」です。
これは、師野口晴哉の「健康の原点は自分の体に適(かな)うよう飲み、食い、働き、…理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。(第七章一 3参照)」という「全生」思想に当たります。
「全生」とは、「生の死に向かいつつある」一刻、一刻を「全力を以て生きる」ことであり、それは、「内在せる可能性を十全に活かして生きる」ことによる「生命の完全燃焼」と言いかえることができます。
私は「全生」が真の「自己実現」と考え、生きてきたその道筋が自身の指導力を養うものとなったと思います。
自己実現とは無意識が啓くこと(=潜在能力発現)なのです。