野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

終章 瞑想法(東洋)と心理療法(西洋) ―「生命の原理」を理解し、無意識の世界を啓く 三4①

野口整体の真髄「生命を感得する」禅の心 

①生きたものは生きたまま扱う禅

個人指導で、私が人を観るとは、「気」で観ているのです。統一体によって、気を鎮め、亢めて観るのです。

「気で観る」とは、観る人の「気」の質によっても、観える相が違ってくるものです。

 言い換えると、「レンズ」の色や性能によって「スクリーン」に映る像が違うわけで、人を観る眼を養うには、長年の経験を必要とします。そして、無心に観ることを修行するという「禅の心」が肝要なのです。

 鈴木大拙氏は、「禅的な方法」と「科学の客観的方法(対象化)」という真の実在に向かって進む二つの道について、次のように述べています(『禅と精神分析』禅仏教に関する講演)。 

二 禅仏教における無意識

 禅的な方法とはじかに対象そのものの中にはいって行くのである。そして実際そのものの中からモノを見るのだ。花を知るには花になるのだ。一片の花となりきって、花となって花を開き、花となって太陽の光を浴び、花となって雨に打ち濡れるのだ。これが出来て初めて、花が私に語りかけてくる。私は花のいっさいの神秘を知る。花のいっさいのよろこびと苦しみを知る。すなわち花の中に脈打つ花のいのちのいっさいを知るのだ。

…科学的方法はいったん相手を殺し、死体を切り離して、そこでもう一度バラバラの部分をつぎ合わせ寄せ集めてもとの生きた個体を再現しようと試みるが、これはまったく無理な話と言わねばならぬ。

これに対して禅のやり方は生きたものは生きたまま決してバラバラの部分に切り離しもせず、また切ったものを知的作用でもってつぎ合わせて、生きたからだをも一度造り上げようなどと言うようなことはせぬ。禅は、生きたものは生きたまま扱う。外科的なメスを当てようとはせぬ。

…科学者は抽象を用いるのだが、抽象というものにはみずから発する力というものがない。しかるに禅はみずから創造の源泉の中に飛び込んで、その源泉の生命を、源泉そのものを飲みつくしてしまうのだ。この源泉を禅の〝無意識〟と言う。だが花は自分で自分を意識することはない。この花を花の無意識からめざめさすものはいったい何か。これが〝私〟というものである。

   大拙氏の「この花を花の無意識からめざめさすものはいったい何か。これが〝私〟というものである。」という言葉の「私」とは、私にとっては「整体指導者」を意味することになります。このような対象との一体化(自他一如)である禅的な方法が、野口整体の観方です。そして整体指導は、全人的な関わりに依って行うものです。