野口整体の真髄「生命を感得する」禅の心
私達が自分の内面を開拓し、人間を丁寧に知り、人間の裡にある生きている不思議さとか、心の働きの微妙さとか、そういうものを丁寧に理解して手を当てておりますと、同じ愉気をするということでも違ってくるのです。
前回は、これが引用文の括りとなっていました。愉気する側が、何を観て、何を感受しているかによって、はたらきかける対象が変化する…というのが、前回に引き続き主題となっています。そして、これは金井先生がユング心理学と野口整体の最も重要な共通点として挙げた「自分で自分のことを研究する」ということにつながります。
これは主観の力というものです。客観と主観の違いもありますが、主観というのも単に自分だけの主観と、他者と共有できる主観があるのです。
では今回の内容に入ります。
③姿勢とは生命の形
師は同著で、愉気法を行うについて「昔は十人来ると七人は断りました。」と、厭な人にはできなかったと述べています。しかし、人間の潜在意識を理解することを通じて、多くの人に行うことができるようになったと、自身に「人間を理解する頭が発達した」と述懐しています。
師は、気と心(潜在意識)について次のように続けています。
質問に答える
…例えば、緑内障などでも、これは心のショックが原因なのですが、ただ愉気していても治らないのに、私が愉気をすると治るのです。それは、私が長い間大勢の人に接して、いつの間にか人間というものをつかんだからで、人間には、生きているという何も見えない力が動いていて、そういう力の動きが形に現われているのです。
つまり普通の人が姿勢だといっていることが、私にとっては生命の形なのです。体の恰好と見る人には体の恰好なのです。体の恰好だと思っている人は、物理的に力を入れて骨を押したり、曲げたりして治そうとしているが、私は生命の形として見るから、ちょっと愉気するだけで体が変わってくるのです。そういうことをいつの間にか憶えてしまったのです。
人間の今あるそれが生命の現われであり、その人の生活がみな出ているのです。私のやり方は相手の生活を正すことです。その生活をしているものは何かというと、その人の体なのです、体の持っている感受性なのです。
…やはり人間同士が深く理解し合わないと、愉気法が本当の効果を現わさないのではないでしょうか。そういう意味で、一応私たちが理解する範囲を、体の面とか心の面とか言うように考えないで、生命そのものに愉気していくというつもりになると、もっといろいろの面が拓かれてくると思うのです。
…ただ手を当てるということだけでも、ただ手を当てるつもりの人は、それだけなのです。これは愉気法だと思って手を当てる人は、愉気法になる。
その愉気法でも、体に行おうと思っている人は体に効くのです。心に伝える人は心に伝わるのです。魂を清めると思っていると、魂も清まるのです。
だから愉気法というのは、形式は単純でありますが、それに対する理解力が増えると、内容はだんだん変ってくるものであります。