野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

(補)最初の問題 1  野口晴哉

 経緯を忘れてしまったのですが、この原稿の最後に、「最初の問題」という野口先生の講義録の抜粋が入っていました。長いため、補足資料1・2として、2回に分けて紹介したいと思います。ブログ用改行あり。(近藤佐和子)

最初の問題  昭和33年3月 整体指導法初等講習会(『月刊全生』平成13年)

野口晴哉

 操法の最初の問題としては、まず自分の力を統一することです。これをするにはどうしたらいいのかという問題であります。正常な体は、或る一箇所、例えば指を使うのにも体中の力が指の先に集まります。

 ですから、指を当てていても体中の力がそこに集まっている。だから指で押すわけではない。体全部で押さえている、というよりは気で押さえている。

 人間の体というものは、一粒の生殖細胞の発展したものですから、もともと一個のものなのです。だから、細胞の数が何百億になっても、何兆になっても、それを統一している一つの働きがある。

 それを人間が生きているとか、命とか、気とかいうような言葉で言うのだろうと思いますが、そういうものが指の先にぴたっと集中してしまわないと、ただ体の物量を掛けただけでは体を統一することにはならないのであります。

〝今日のおやつは何だろう〟などと思っていたのでは、これは統一ではない。やはりそこの目標に向かって自分の気をふっと集中して、自分の全身全霊をそこに集めてしまうような気構えがないと、統一するということは実現しないのであります。

 要すれば、操法するということに懸命になるというそれだけであります。ところが一生懸命になるというと、無我夢中になることだと思う人もいますが、そういう意味の一生懸命は本当でないのであります。

 力のない人がもっと力を出そうとして足掻いている時に、無我夢中という現象が生ずるのです。演壇に登って上手に歌を歌おうなどと思うと、却って歌えなくなってくる。一生懸命歌おうとするほど歌えなくなってくる。

 丸木橋を渡ろうとする時、歩くのに一生懸命になると却って力が出なくなってくる。そういうように、ない力を振り絞ろうとすると一生懸命はときどき逆効果を呈しますが、自分の持っている力の全部をそこに集中するという一生懸命は、自分の持っている力を全部出すのであります。

 力を出そうというように思うのではなくて、ただそこに集中すればいいのです。つまり操法するということが大変大事なことなのだ、人の命に関わることなのだということを腹の中にぐんと入れておけば、自ずとそうなるのであります。

 そういう命が大事であるということの本当の感じを実感として持っていないと、手の方がついふわふわ動いていき、一生懸命にやろうとしても、本当の集中が行なわれないで、単に力の見せかけ、或いは腕を見せるためというようなことに動いていく。

 だから統一がなくなってしまう。やはり自分の命が大事なように人の命も大事であり、生命というものに対する礼といいますか、何かそういったようなものが足りない時には、どんなに気張っても全力を発揮できないし、統一することもできない。

 ですから練習の場合でもやはり同じでありまして、練習だからという理由で人の体を玩具にしていい理由はない。

 やはりそこにも一生懸命がなくてはならない。それで自分の気持ちをふっと一つにすると、統一される。統一して、指に全部の気持ちが集中してくると、人間の指は今までの普通のご飯を食べたり、お尻を拭いたりする指と違って特殊な力が生ずるのであります。

 指の力だけでいえば、先を細くした、尖らした棒を使った方がもっと強く押せる。しかし整体操法では強く押すということは意味がない。それなら針の方がもっと強い力で刺戟できる。

 そうではなくて、手でやる技術の一番の重要な問題は、人間が統一してそこに集中し抜いた時に、手が今までの手と違ってくるということであります。 人間の顔でもぼけっとしている時は間が抜けているけれども、何かの仕事に懸命に打ち込んでいる時は、それまでにない美しさが出てきますね。

 そういうように人間の中にあるものを統一して、そこへ集めると、違った力が出てくる。それは遠くの小さな音でも、お喋りしたり頭の中がふわふわしている時は聞こえないけれども、気を澄まし、心を澄ましてくるときちんと聞こえる。

 そういうように今まで持っていたのに現われなかった力が出てくるのであります。