野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 序章一3

  今回紹介する3に、「ハウツー的な「科学的・方法論」としてではなく…」というところが出てきます。当時『病むことは力』続編を出版社から依頼されたのですが、このような内容を「野口整体の本」として出すことを求められた経緯があり、そのことを意味しています。

 結局、そこで折り合いがつかずに『「気」の身心一元論』は自費出版に近い形で出版することになりました。

金井先生は時折、野口晴哉先生が講義の中で「思想の無いものは滅びる」と言っていた…という話をしてくれました。戦前に興った治療術、霊術の多くは、非凡な創始者が亡くなった後、消滅したのですが、野口先生はそれらを見てきた経験を踏まえて言ったのだと思います。

 そして野口先生は、晩年、整体という理念、病症についての教養を共有していくことを指導の中心にしていくようになりました。金井先生は、その晩年の弟子です。

 では今回の内容に入ります。

対外活動を通じて「日本の身体文化」が衰退した現代社会の実情を知る

  本書に取り組んだのは、2006年のゴールデンウィーク明けのことでした。私が第二作として、野口整体を著すことを考えますと、やはり、ハウツー的な「科学的・方法論」としてではなく、「宗教的・修養論」として、「生命哲学である野口整体」をいかに著すかと苦心を続けたのです。

 そんな中、偶然にも、2008年1月から3月の間に四度、外部での講義や講演が続くことがありました。私は、これらの体験を通じて、思いがけず考えを新たにすることができたのです。

 この四度の講義・講演のうち、二度は「友永ヨーガ学院」での講義でしたが、その準備を通じて、〔身体〕(きっこうかっこしんたいと読む)というテーマに至ったことが最初の大きな収穫でした。

野口整体の身体は「身心」というもので、心の動きや「無意識のはたらき」を観察する対象としています。これを、私は〔身体〕と表記することにしたのです。

この時の講義では、「近代科学」的な体=肉体と、「東洋宗教」的な体=身体、との相違がテーマの中心でした。

「近代科学」的身体観による体とは、心身二元論に基づく(=心と体を分離して、外側から捉える)もので、「客観的身体」というべきものです。

「東洋宗教」的身体観による体は、身心一元論に基づく(=心と体を一つのものとし、内側から捉える)「主体的身体」というもので、両者は大いに異なるものです(第一部第三章二で詳述)。

 その後のある児童相談所での講義では、聴講者は依頼者以外、野口整体という言葉を聞くことさえ初めてでした。ここでは「児童虐待」など、職員が日々難しい局面に遭遇することへの必要性から、「『腰・肚』という身体が対話能力を高める」をテーマとし、「肚」の力を養うための「正しい正坐」を実習しました。

 しかし、参加者は、中高年が多く見受けられたにも関わらず、「肚」という言葉の意味を知っている人はわずかでした。

 そして、ある大手電子機器メーカーの管理職研修での講演では、四十代を中心とした人たちの中で、半数ほどの人が、正坐はおろか跪坐(きざ)すら満足にできない、ということに私は大変驚きました。

 対象となった公的機関や大企業の、40代前後の人々が「肚」という言葉を知らないことや、「正坐」ができないという「身体性」の衰退を目(ま)の当たりにしたことは、正坐を基本としたこの世界に四十年生きてきた私にとって「浦島太郎」的な体験になりました。

野口整体の技術(愉気法・整体操法)はもちろん、思考も思想も「身体性」と深く関わっているのです。身体智と頭脳知の統合が求められる世界なのです。

 大手企業の管理職に上がった人々ですから、皆、礼儀正しく紳士的なのですが、私の世界から観て、このように、伝統的な「身体性」を喪失していながら成立している職業的能力とは何か。そして、このような能力を必要としている現代社会とはどのようにして形成されているのかを考察する大きな契機となったのです。

 2008年早春の四度にわたる講義、講演は「現代における野口整体の立処(たちど)」を考えていく上で、「現代」という時代についての私の問題意識を深め、「現代性に取り組む必要性を知る」という大きなステップとなったのです。