野口整体と科学 序章 二3
今回の内容には、現代の女性と出産・育児についての記述があります。全体的に、野口整体の出産・育児観というのは、一般的な感覚から言うとかなり女性に対する要求水準が高く、女性の責任が重く感じる方も多いかと思います。
井深大氏の幼児教育に対する考え方も「三才神話」などと言われ、母親を追い込んでいるという批判がされたこともありました。
でも、そこで、大人の自分ではなく、子どもだった時の自分のことを思い出してほしいのです。お母さんは、自分の太陽、宇宙の中心だったのではありませんか?
野口晴哉、井深大の言葉が母親に厳しく受け取られるのだとしたら、それは「男だから」というよりも、子どもを中心にした見方をしているからなのです。それでは今回の内容に入ります。
科学が置き忘れた人間の心― 対象化して認識する科学的知性=「理性」
井深氏は『胎児から』で、新生児に対する見方に表れている西洋医学の「科学性」について次のように述べています。
はじめに
生まれたばかりの赤ちゃんは、眠っているか、泣いているか、お乳を飲んでいるかだけで、目も見えなければ、知能もなく、悲しいとか嬉しいとかいった心理的機能も備えていない ――永い間、私たちはそう教えられてきました。それが、私たちが長年にわたって信奉してきた近代西洋医学の考え方だったからです。
しかし近年では、生まれたばかりの赤ちゃんが母親の声に特別の反応を示すことは、広く知られています。それどころか、お腹の中にいる時から、赤ちゃんはお母さんの声はもとより、子宮内外の音を聞いていることが、学問的に明らかにされています。
合理的思考を旨とする、これまで(私が若い頃まで)の科学的知性=「理性」というものは、「赤ちゃんは…知能もなく、…心理的機能も備えていない」という判断をし、他の可能性を顧みることがないものでした。
高等教育を受けた女性に「子育てが難しく感じられる」傾向がある原因は、赤ちゃんの「心」を感じ取るための感性がはたらかないことにあるのです。理性に偏ると感性は隠れてしまうのです。
さらに、私が若い頃は「女が大学に行くとお産が重くなる」とまで言われており、年配者は、西洋学問をする(=理性・客観的思考が発達する)ことの弊害をこのように表現していました。
理性という現在意識が活発な女性(=高学歴の女性)に子育てが難しいのは、子どもの内面を感じる心(感性・潜在意識)がはたらかないからです。潜在意識がはたらくには現在意識のはたらきを弱めることが肝要です。
(現代では、潜在意識を自覚するという意識的訓練が必要で、その上で潜在意識を使うことで発達する)
働く女性が妊娠し、出産前まで長く働き、頭を多く使うことは、胎教や出産、その後の育児に影響があるものです。特に妊娠早期において頭が働かなくなる時期を自然(じねん)に経過することは、潜在意識のはたらきを養う上で重要な意味があると考えています。
(女性は妊娠期間を通じて母性が発達する=女子が母親となる)
科学的・客観的思考とは「切断する」はたらきでもあるのです。現代での「子育ての難しさ」の要因はここにあるのです。
野口整体の指導において必要とされる、人間を扱う「感性」というものは、このような理性・現在意識というものとは対極にあると言えます。
近代科学の頭にある心(理性)に比し、野口整体の心(感性)は体にあるのです。
東洋宗教の基にある身心一元論では、精神(霊魂)とは「肚」であり、「身体性」を重視し「人間の中心(心)は丹田にある」としています。これに基づく野口整体では「心と体は同じもの」であり、この「心」は近代科学(心身二元論)が定義した心とは大きな相違があるのです。
井深氏は、戦後の教育の問題と関連付けて、西洋医学は「部分を取り上げ、全体との関係を無視している」と、西洋医学と教育の問題が持つ共通点について次のように述べています(『心の教育』()内は金井による)。
教育の“対症療法”では、子どもの心は育たない
熱が出たら熱を下げる薬を与える、血が出たら血を止める薬を塗る。こうした対症療法の考え方に基づく治療法は、じつは人間の心と体が形づくる全体的なシステムを無視し、局部的な症状、部分的な現象しか見ていないことになるのです。
教育の問題にしても、ここで述べたこととまったく同じ誤った扱いがなされているのが現状です。それはおそらく、西洋医学も戦後の教育も、その根本では西欧的な合理主義というイデオロギー(主義・思想)によって支えられているからでしょう。
「対症療法だけでは教育は変わらない」といったとき、その意味するところは、たいへんに深いところでフィロソフィー(哲学)の問題につながっていると思います。
西洋医学の治療法が、このように「対症的」であるのは、近代科学の心身二元論と機械論的世界観が基にあるからです。
(註)漢方医学では外感熱病(感染による熱病)を邪気(発病因子)と正気(抵抗力)の闘争ととらえる。ここでは発熱の状態を否定せず、発熱もまた邪正闘争に伴う病理反応とみる。