野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第一章 野口整体と西洋医学―身心一如(一元論)と心身分離(二元論)四3

3 主体性を失うことになった心身二元論と機械論的生命観

― 主体性が自然治癒力の源

  西洋医学の基にある近代科学の大元には、「自然支配」があるのです。支配には、「するものとされるもの」という二分が前提されています。

 西洋医学の科学的特徴とは、生命のはたらきを「健康×病気(善と悪)」、「生×死(勝利と敗北)」という二分法で考えるものです。そのため西洋医学では、病気を無くそうとしたり、死なないようにしようとします。

 そこで、医療の在り方は「体という自然」を支配する方法論となっているのです(二分法は、古代ギリシアプラトン哲学の二項対立的思考(形相(イデア)と質料(ヒュレー))に始まり、自然支配は、ヘブライズムに始まる)。

 近代において確立した機械論的生命観では、「自然治癒力」は前提されておらず、生命力を活用する考え方をするのではないのです。

 石川氏は「健康×病気」の二分法について、次のように述べています(『複雑系思考でよみがえる日本文明』)。 

ニューサイエンスとホリスティック医学

自然治癒力という概念は、日本人にはなじみやすい考え方であるが、過去の西洋医学の中には含まれていなかった。今から十数年前、海外で講演をするために、医学大事典で自然治癒力の項目を探したが、その項目がなかったことを鮮明におぼえている。ところが、中国医学では自然治癒力が医学の基本として重要な位置を占めている。

…現代人は、病気を医者が治してくれることを期待する。この考え方は、患者自身が病気を機械の故障と同じように考えていることを意味する。機械は自分で故障を治せないからである。

しかし、生物は自らの力で異常を修復する機能をもっている。その機能によって病気が治るという視点に立てば、患者自らの主体性によって生活態度や人間関係、あるいは心のもち方を改善することが、病気治療の基本であるという結論に達する。

このような考え方は、心と体を一体としてとらえる自然観(身心一元論)からみれば当然の帰結となるが、心と体を分離する自然観(心身二元論)からは容易に生まれてこない。

最後に触れておきたいのは、「健康はよいことで、病気はよくないこと」という二分法的な考え方である。確かに健康は望ましい状態であるが、常に健康に恵まれている人は、健康への配慮に欠ける場合が多い。

逆に考えれば、病気は自分の生き方を反省し、生活を改善する絶好の機会であり、ありがたいことなのである。痛みがあり、苦しみがあるから人間は異常に気づき、それをきっかけとして成長することができる。

 「痛みがあり、苦しみがあるから人間は異常に気づき、それをきっかけとして成長することができる。」これは、師野口晴哉の「心でも体でも、異常を異常と感ずれば治る」という言葉と同じで、「気づく」ことで癒しが起こり、それは成長へとつながるのです。

 引用文中の「生物は自らの力で異常を修復する機能をもっている。その機能によって病気が治るという視点に立てば、患者自らの主体性によって生活態度や人間関係、あるいは心のもち方を改善することが、病気治療の基本である」という「主体性」を失ったことが、近代(デカルト)哲学の心身二元論と機械論的生命観に因る大きな問題なのです(第一部第三章で詳述)。

 野口整体の指導者である私の立場は、「病気が治るのは本人の自然治癒力に依拠する」ものであり、それは、本人の生活態度が主体性を取り戻すことで、自然治癒力が復活する(生命力が活性化する)という考え方に立っています。

 ですから、身体の状態(病症)の背景にある「その人の生き方」に関与していくという指導内容なのです。

 この「生活態度や人間関係、あるいは心のもち方を改善する」という主体性を養うことが、野口整体(整体指導)の目的とする処です(本書で説く教養と修養)。

 西洋医学は人間の体の状態を、健康と病気、それは正常と異常に分け、異常である病気を研究するものです。病気のありよう、つまり病理学研究を中心に発達したものです。

 これは、異常が見られなければ、医学の対象にはならないことになります。これに比し、野口整体の理念は「自分の健康は自分で保つ」ことで、そのため「整体を保つ」という、古くは「身を保つ」と言われた養生の考え方を教育することなのです。

「整体」を保って生命を全うすることが、野口整体の全生思想です。

 科学である西洋医学では、「生き方」や「死」について、どう向き合うかは扱われていません。科学には死生観(=生き方・死に方についての考え方)はないのです。ですから医学の中には宗教性がないということになります。

(宗教者であり科学者であったデカルトが宗教裁判(宗教と科学の争い)を調停し、科学はモノの研究に限定され、科学には、元来「心」や「生き方」は含まれていない)

 一方、私が取り組んできた野口整体は「いかに生きるか」、それはどうしたら「自分の命を活かすことができるか」ということに取り組んできたと思います。これが全生思想です。

野口整体は、医療・教育・宗教(生き方)を包括する)