野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観一3

 今回の内容には東日本大震災の時の「福島原発事故」という言葉が出てきます。今年、あれからちょうど10年が経ちましたが、福島の原発問題は未だに解決していません。

 そして、新型コロナウイルスの問題が起きましたが、ワクチン開発に莫大な資金が注がれ、切り札として期待されていますが、人間の免疫系そのものが正常性を失っているかもしれないことや、人間と自然の関係が破綻しかけていることには、ワクチンほどの資金や人的資源が注がれることはありません。

 科学技術はこの10年で飛躍的に進歩して、目先のことは解決能力が増したように見えますが、本質的な問題は解決されないままであり、むしろ悪化しているとも言えます。そうした問題の根本に、近代科学の問題があるのです。

 3 今こそ、科学・近代西洋文明を相対化して理解する時代― 科学の「ものさし」とは何か 

「近代科学と東洋宗教」という大きな世界観の相違が生まれた理由として、1・2のような説を以って考えたことで、近代科学と科学的現代社会に対する理解を深めることになりました。

 敗戦後の日本は、東洋宗教文化の伝統を失いました。石川氏は、科学的教育のみに偏った戦後日本の民主主義教育では、科学の持つ思考の「非連続性=閉鎖性」がいつしか人の心を支配することを指摘し、現代の人々がこのようなことに対して無関心であることに警鐘を鳴らしています。

 私がこのようなことを云々(うんぬん)するのは、野口整体は「つながり(連続性)」でできているからです。

 石川氏は、「化学でも生物学でも、自然科学という学問はすべて「絶対普遍」の「客観的真理」を扱っているという考え方は、かなり社会に定着している。」(『ニューサイエンスの世界観』)と指摘し、この常識を先ず外してみることを提案しています。

 そして氏は「近代科学や民主主義が西欧で発達し、それらがいずれも全体の中の「部分」を重視しているということは、西欧文化を支える一つの特質を浮き彫りにしている。」(同著第一部第一章)と、この特質が決してあらゆる文化に共通の普遍的なものではないことを明らかにしています。

 さらに、現代の人々がその普遍性を無意識的に信じてきた(=それが常識となっている)のは、背景にある文化を教えられていないことに要因があると強調しています。このため、科学の持っている「ものさし」とは何かを理解する必要があると説いているのです。

 科学は、世界的には一地域である西欧の文化性が色濃く反映したもので、「絶対普遍」とは言えないものなのです。

 私は、1967年という科学万能主義の時代に野口整体の道に入りました。万能主義は、絶対主義とほぼ同義であり、絶対化して捉えることは狂信と同じです。

 しかし、この道に入れば、その中では「野口整体絶対主義」という面があり、西洋医学を真っ向から否定的に捉える人がいました。これは個人的な、西洋医学での不幸な体験による「思い込み」が元でしたが、いずれも絶対化して物事を捉えているのであり、両者ともに偏った考え方だと言えます。

 私が石川氏に学ぶことは、西洋医学の元にある「近代科学」を理解することで、野口整体の元にある「東洋宗教」を相対的に捉えることになりました。(これまで近代科学教育のみで、本書で説く東洋宗教文化を初めて知る人は、近代科学を相対化することになる。)

 そうして、私は、「野口整体を社会的に位置付ける」、さらに、より意識の高い人々に伝えるためには、「近代科学の相対化(註)を説く」ことを通じて、東洋宗教(東洋的思考)を基盤とする野口整体を伝えようと考えるようになったのです。

 現代では、意識が発達している人というのは、須らく、無意識的に科学(客観的な見方)を絶対化して捉えているからです。

 それは、近代科学的に発展してきた西洋医学の科学性を理解することで、対比的に野口整体の観方にある東洋宗教性を理解することです。

「心と体のつながりはどのようなものであるか」を捉えることは科学的にはできないのです。

できないという以上に、科学は「心身分離」が原則ですから、このようなこと(心と体のつながり)は近代科学(西洋医学)ではないのです。

 日本では明治以来、そして敗戦後はさらに、近代科学を絶対的なものとして社会と生活に位置づけて来ました。

 福島原発事故の問題を引き続き抱える今こそ、「科学的価値観」を相対化すべき時代です。科学の価値観が唯一絶対のものではなく、他の視点、立場からの考え方があることを充分理解し得る時代と考えます。

(註)相対化 一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること。