野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観二2②

 ②は野口晴哉の「受療の道」が中心です。これは昭和6年に書かれたもので、受療を受ける側の心構えについての内容です。

 野口先生がこの中で批判している人には「信を置いていない」などというつもりはなく、おそらく「客観的に」観察したり、他と比較したりして考えているだけだと思っているのではないでしょうか。近代人というのはそれが習い性になっていて、それが正しく知的な態度だと思っているのです。

 自分のことを考え、過去の自分を超えていく上で、そういう無意識的な構えにどんな弊害があるか?これは金井先生が河合隼雄氏を通じて考えた、現代人に与えた科学の影響という問題につながります。

 それでは今回の内容に入ります。 

2 関係性(信)を基礎におく野口整体の整体指導― 自然治癒力(自力)は他力(関係性)によって啓かれる②

②自力と他力の相互作用のために必要なこと

次は師野口晴哉が、治療家時代に書かれた文章を紹介したいと思います。この内容は、近代化されつつある時代、科学的な西洋医療に影響された人々の固定観念によって、師が苦労されたことが、私にはよく読みとれるものです(『野口晴哉著作全集第二巻』初出『語録』昭和六年 無薬時代社)。 

受療の道

病弱から健康になることは、即ち自己を新たにすることである。しかし、自力で新たになるのではなく、他力で新たになるのである。他力で自己を新たにするには、何よりも先に自分を他力の中に没却しなければならぬ。丁度、車か船にでも乗つた気持でゐることが必要で、なまじな知識や小才覚は禁物である。

他力で自己を新たにする秘訣は、他力のうちに自己を没却することである。藤なら竹薮の中でも真直ぐにはなるまいが、蓬なら麻に交れば真直ぐになる(註)。他力本願の要は之に尽きる。

けれども世の中には、どうしても自己を没却し得ぬ人がある。

斯様な人は、自ら新しい自己を造らんと努力せねばならぬ人で、受療の資格がない。

 

他力によつて、自己を新たにしようとするなら、昨日の自己は捨てて仕舞はねばならない。他力によつて新しい自己を造らうと思ひながら、自己は矢張り昨日の自己同様で、思想、行動、態度、習慣を保存し、内々自己の見識を立てむと思ふならば、それは甚だしい矛盾であつて、何等の効益もないのみならず、却つて相互に無益の煩労を起す基となるばかりである。

…昨日までの考へが誤つてゐたればこそ、昨日まで病弱を持続してきたのではないか。然らば昨日までの自分を捨て、一切すべてを新たにして、自分を他力のうちに没却しなければ、治療によつて健康にはなれぬ。

しかし、他力に頼つて自己を新たにしようとするにも、信といふものは自己に由つて在するのであるから、即ち他力によるうちに、自己の働き(自力)がある。

諸君にもしも生命がないとしたなら、私が如何に努力したところで、治すことはできない。

…他力を頼るうちにも、治る力は自己にあるということを理解しておかねばならぬ。

…他力のうちに自己を没却して他力によつて自己を新たにし、而して自己を他力のうちに見出して自己を確信(自力)し、自己を確信し得たなら、他力から脱して自己による健康生活をつづける心がけがなくてはならない。

他力本願 ―― 治療を受けて健康たらんとする人が、第一に心がくべきは之である。自己を新たにする考へがなければ治療は受けられぬ。昨日までの意識の一切をかなぐり捨てて裸になる。之治療を受けるものの道である。

 (註)麻の中の蓬(よもぎ)

善人と交われば、自然に感化されて善人になることのたとえ。『荀子・勧学』に「蓬、麻中に生ずれば扶けずして直し(ヨモギも真っ直ぐに伸びる麻の中で育てば、手を入れなくても真っ直ぐ伸びる)」とあるのに基づく。

 

「病弱から健康になることは、即ち自己を新たにすることである。…他力で自己を新たにするには、何よりも先に自分を他力の中に没却しなければならぬ。

…他力によって、自己を新たにしようとするなら、昨日の自己は捨てて仕舞わねばならない。他力によって新しい自己を造らうと思ひながら、自己は矢張り昨日の自己同様で、思想、行動、態度、習慣を保存し、…却つて相互に無益の煩労を起す基となるばかりである。」

 この文章は師の治療時代の文章ですから、今では、傍線部は「不整体から整体になる」と言い換えるのが適当です。

「整体」の世界には、その世界観があり、改(新)たな「思想・行動・態度・習慣」によって「整体」となるものです。そして、その世界観が整体を保つのです。

 敗戦後七十年を経た現代、一般的な人々は、東洋宗教を全くと言うほど知らず、その世界観は近代科学に依るものとなっているのです。

 東洋宗教の一つ仏教(註)への入り口は自力門と他力門に大別され、自力は聖道門、他力は易行門(または浄土門)と言います。この二つの門が説く「心」への哲学的理解を進めることで、自力・他力(註)を正しく捉えることができます。

 野口整体での個人指導、また活元運動指導を進める上においては、自力と他力が一つになることが何より肝要です。

(註)日本に伝わった仏教は大乗仏教と呼ばれるもので、自力聖道門(天台宗真言宗禅宗)と他力易行門(浄土宗・浄土真宗)がある。

自力・他力 仏教用語。仏教の究極の目的である悟りを得るために、自己をよしとし、自分自身の素質や能力に頼る修行法を自力という。これに対し、自己を煩悩具足の凡夫とし、清浄真実なものは仏陀の側だけとして、自力を否定し、自分以外の力、阿弥陀仏誓願(全てのものを救済しようとする仏の願い)に帰依する実践を他力という。聖道門・易行門の両者は、大乗仏教の“車の両輪”。

紀元前後にインド北西部で始まった大乗仏教運動とは、出家者の解脱を中心とした、それまでの上座部仏教に対し、俗世間の凡夫でも利他行を続けてさえいけば、誰でも未来の世において「仏陀に成ることができる」と宣言したもの。日本人が歴史の中でもっとも「心の拠り所」としてきた宗教は、この大乗仏教だった。