野口整体と科学 第二部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三1
三 近代科学と東洋宗教(石川学)― 自然を解明し、支配する近代科学と
人間の自然を保つ「道」としての野口整体
今回から三に入ります。日本では、伝統的なお稽古事を「書道」「茶道」のように「道」をつけて呼ぶ習慣がありますが、「道」とはどういう意味なのかを知っている人は少なくなってきました。それは「修行」の意味が分からない、ということと同様で、日本舞踊なり武術なりを「やること(習う事)」=「道」ではないというところがポイントです。
野口整体も、活元運動をしたり、愉気などの方法を習ったりすることだと思われていますが、金井先生はそう思っている人たちに「野口整体は道である」と言っていました。それがどういう意味なのか、ということが三の主題となっています。
1 野口整体とは人間の自然(じねん)を保つこと― 道のための「祓(はらえ=お祓い)」を行なう整体指導
本章一 2で、本書のタイトルの副題『近代科学と東洋宗教』について述べましたが、これは「科学の知としての西洋医学」に対する「禅の智としての野口整体」という対比でもあります。
そしてこれは、科学一辺倒になった現代人に対して、野口整体を理解し「自分の健康は自分で保つ」上で、欠かすことのできない「修養・養生」を取り戻すことの必要性を訴えたいためでした。
日本には東洋宗教文化としての「道」(註)から生まれた心と体の使い方(生き方)である「修養・養生」がありました。
(註)道 中国哲学上の用語。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家(老荘思想を奉じる者)や儒家によって説かれた。日本に伝わった後、独自に発達した。
江戸時代の学者、貝原益軒は『養生訓』で、健康であるため、天地の法則(道)に従って生きるという「人(ひと)の道(みち)」を説いた。近代医学がなかった時代、修養と同様、養生は「健全に生きる」という積極的な意味として用いられていた。
私が「道」を説くのは、野口整体で言う「整体(体が整っている)」とは、「人間の自然(じねん)を保つ」ためのあり方だからです(じねんとは「自ずからなるあり方」)。
明治以来の近代化の流れの中で、失われつつあった日本文化(東洋宗教文化)ですが、敗戦(1945年)後の衰退は著しいものでした。
今こそ、近代科学文明に対して東洋宗教文化を取り戻す時です。伝統的な日本人の、自然と共生し「自然(じねん)を理解する」生き方を伝えてきた東洋宗教を改めて知り、「自然を支配する」という性格の近代科学を捉え直し、これを、どのように生活に位置づけていくかを考える(=科学を相対化し、伝統文化を思想的に理解する)ものにしたいというのが本書の動機の主なものでした。
師野口晴哉が「自然」の語を用いる時、それは、現代の外界の自然をのみ意味するのでなく、日本語本来の自然の意である「じねん(あるがままの姿)」を意味します。
師は「自然・秩序・健康・美」について、次のように表現しています(『偶感集』全生社)。
「それ以前」
天衣無縫は美ではない。そこに自然の秩序が現われることによって美を感じる。
美は秩序であって、抛ってあるところにあるのではない。
一片の花にも美しさを感じさせる秩序がある。
一つかみの雪にも自然の秩序が整然とある。その自然の秩序を人体上に現わしているものを健康と私らは感ずる。
自然は美であり、快であり、それが善なのである。真はそこにある。
しかし投げ遣りにして抛っておくことは自然ではない。
自然は整然として動いている。それがそのまま現われるように生き、動くことが自然なのである。
師野口晴哉が設立した整体協会の、本部(二子玉川)の玄関には、「整体道場」の看板がありました。そこで行なわれるのが「整体指導」と「活元運動指導」です。
このように野口整体では、「道場、指導」という言葉が用いられます(一般の“整体”は「○○院、治療」という言葉が使われる)。
この「道(どう)」、また「導」について考えてみたいと思います。
「導」という漢字を調べてみますと、「道(みち)を、修祓(しゅうばつ)(神道で祓(はらえ)(お祓い)を行なうこと)しながら進むことを『導』といい、修祓したところを『道(みち)』という。(白川静『字統』平凡社より)」と表されています。
師が大切にした心に「無心・天心」があります。師は、「天心」を「大空がカラッと晴れて澄みきったような心」と表現しており、まさに「天の心」とひとつとなることを意味するこの語が、野口整体の全生思想を象徴しています(天心という語は、老荘哲学・道家思想に由来している。無心は禅語)。
このためにある(天心に導く)整体指導とは、まさに「修祓(しゅうばつ)」なのです(神道的な儀式としての整体指導)。
活元運動の基となった霊動法は、「禊祓(みそぎはらえ)(神道における身心を清める行為)」(そして鎮魂(ちんこん)・魂振(たまふり))として古神道に伝えられていたもので、野口整体の指導は、身体に具わるこのはたらきを拠り所として行われます。
そして修祓すべきは「雑念」なのです。「天心」は、中村天風師の「積極心(晴れてよし、曇りてもよし富士の山、もとの姿は変わらざりけり)」と同質であり、また、ユングの「コンプレックス(自我の主体性を奪うもの)と自己実現」の考え方でもあります。
「無心・天心」は、道のエネルギー「気」を受け入れるための器としての身体のあり方なのです(気を受容することで「良い空想ができる身心・整体」となる)。