野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三3②

 今回は「意識」のあり方がテーマです。意識というのはさまざまなあり方があって、脳の中だけで完結しているわけではなく、情動、姿勢などを含めた体の状態、体から脳に伝わる感覚情報が意識のあり方に大きく関わっています。

 東洋と西洋では意識のあり方が異なり、それが「心」の意味の違い、そして心身一体論的なものの観方と、心身二元論的なものの観方の違いを生んでいる…という点がポイントです。それでは今回の内容に入ります。

 3 東洋の身心論による「意識」とは― 主観的・定性的・全体的

②主観的・定性的・全体的な東洋の心

石川光男(『西と東の生命観』)

 東洋的心身一体論を理解する際に気をつけなければならないことは、それが単なる論理的思考によって得られるものではなく、心身全体の体験を長い間積み重ねることによって、初めて得られるものだという考え方である。

 そのために、東洋の心身一体論は、自己の心身の鍛錬としての「修行」という概念と密接不可分である。すなわち、心身一如は心と身体を同時に鍛錬することによって体得すべきものであり、単なる知的理解の対象ではない(体得、また体認)。

 この点が、西洋の心身論が理性による知的思考を基礎としているのとは全く異なっている。東洋の心身論は、哲学的であると同時に経験的であり、実証的である。経験的、実証的であるという意味において、東洋的心身論は科学的研究の対象として検討すべき価値をもっている。

 しかし、東洋的心身一体論を、デカルト心身二元論や、現代科学の物質的一元論と単純に比較をすることは危険である。なぜならば、東洋的な心身観は西洋の心身観とは著しく異なった意味内容をもっているからである。

 まず第一に、東洋的な「心」は通常の理性や情動ばかりではなく、それらを越えた意味でのもっと深い意識をも含んでいる。ヨガにおける瞑想や、仏教の座禅においては、感情の動きや理性的思考を止めた特殊な意識状態の実現を目指して訓練を行う。

 心身一如の意味は、そのような特殊な意識状態で初めて「体得」されるものであって、理性の働きによるものではない。したがって、これを体得する場合に言葉は不要である。不要であるというよりも、むしろ邪魔であるといった方が正確であるかも知れない。これが二つ目の大きな差異である。

 西洋文化による心身論は、すべて言葉によって理解されている。それは理性による知的認識には「ことば」(数字、数式、記号を含む)が必要なためである。

 東洋の神秘思想を理解しにくい理由の一つはこの点にあるといってよい。東洋的にいえば、「心」とか「身体」とかいう「ことば」があるために、それらの言葉に付随する理性的概念が邪魔をして、本当の「知恵」に達することができないことになる。

…東洋の心身一体論は、時代遅れの「非合理的」思想であろうか。それは、体験によるという意味で主観的であり、心を扱うという意味で定性的(註)であり、全体をまとめて扱う(全体的)という意味で分析的でない。したがって、現代科学の方法論の定義に照らしあわせれば、明らかに「非合理的」である。また、現代科学の身体観に合わないという意味で、「非科学的」である。

 (註)定性的

 物事の様子やその変化を、数字では表せない「性質」の部分に着目して研究する。科学の客観的・定量的・分析的に対し、東洋は主観的・定性的・全体的である(第三章で詳述)。

 「道」に基づく教育は「肚(人間の中心)」を体得し、無意識を活用することに依るものでした。

 伝統的な「日本人の意識・心」は、「無我(無心)」を至上とした身体性による意識(無意識主体)というものであり、「西洋人の意識・心」(現代日本人の意識・心)は、「自我」という理性主体の意識なのです。