野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 二2

何も彼も判るつもりのうちは、判るということは無い。

知り得ない人間が、知り得ない世の中を、知り得ないままに歩んでいる。

手探りしている人は、知り得ないことを知っていない人だ。知り得ないことを知った人は、大股で歩んでいる。

闇の中で光を求めているのは、知り得ないことを頭で判った人だ。知り得ないことを本当に納得した人は、光を求めない、又頼らない。その足の赴くままに、大股で闊歩している。彼はその裡なる心で歩いているのだ。

野口晴哉『偶感集』)

  金井先生は、この言葉が好きでした。原稿中にはありませんが、今回の内容につながると思い引用してみました。それでは内容に入ります。

 2 批判的精神を育てる科学

 中村天風師(天風哲学については下巻で詳述)は、科学教育が現代人に与えた影響について次のように述べています(『運命を拓く』)。

 

 

第八章 人生の羅針盤

 …現代の人間は情ないほど…何でも、まず疑いから考えようとする。そうすることが、正しい考え方のように思っている人が多い。疑いの方から考えようとするから、自分というものが、勢い、小さな存在になってしまっている。

 ではなぜ疑いがいけないのか。それは疑い出したら、何事も安心が出来ないからである。

……… ……… ……… ………

…現代の人間、特に理知教養のある人ほど、あさましいほど、諸事万端、他人事ばかりでなく、自分のことまで疑って人生を活きる悪い心持ちを持っているのは、科学教育の余弊(伴って生じた弊害)だといってもいい。幸か不幸か、お互は科学の時代に生まれているからである。

なぜ科学の教育を受けると、そうなるかというと、科学はまず疑いの方面から、物を考えようとする。…

「科学は疑い深い」というくらいである。しかし、もっと科学の求める結論を考えてごらんなさい。

 科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。…

もっとわかりやすくいえば、科学的にわかることと、どう研究してもわからぬこと、わかっていないこととがある。いくら、知らなければならないと思っても、それには限界がある。

 科学は万能の学問ではない。それを、何事をも科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間にわからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

 そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心できない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

  1での湯浅氏の文章や右の天風師の引用文による理解を通じて、近代科学はこのような性質のものと知ったことで、科学的に高度化された現代の日本人が十全に生きる上で、生の意味や価値を考えるため、東洋宗教を取り戻す必要があることを確信し、「近代科学と東洋宗教」という対比をしたのです。

 科学の理性的精神は、その分別智によって、批判的な態度を固持する者を育てるからです。さらに、理性至上主義によって「上実下虚」となった身体は、何が「真」であるかを直観的に捉えることが困難となるものです。

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