野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 二4

「修行とは何か」というのは、金井先生が若い世代に野口整体を教える上での課題でしたが、湯浅泰雄氏はこれを明確に定義しています。

 今は日本人でも「修行」は技術や技法(方法論)を教わることだと理解する人が多く、真の意味をすぐに理解する人は少ないのです。

 体で行うことが体の体験にとどまり、心に及ぶ体験にならないのでは、野口整体をやっているといっても、その内容は異なっていきます。ですから、まず言葉の定義を共有しながら体験していくことが必要なのです。

 それでは今回の内容に入ります。

4 身体に具わる潜在能力を啓くために修行がある― 修行は真の自己を発見するための実践的探求

 3の引用文の「東洋人にとっては、…わりに容易に理解できる…西洋人にとっては、…必ずしも容易に理解できるものではない」という部分については、敗戦(1945年)後の半世紀の間には著しい文化的変遷(「道」の喪失と「修行」の伝統の衰退)があったことから、現代では日本人においても、「修行」の真の意味は容易に理解できるものではなくなっているのです。修行とは「新しい自己を目覚めさせること」と、知らない人が若い世代に増えています。

「修行」の真の意味を知らない人々は、「身体」に取り組むことが、「自己の内なる世界」の探究であることを理解していません。このような人は、活元運動を単なる健康法(方法論)の一つとのみ捉えているのです。

 西洋の心身二元論的身体観における「健康」とは、機械論的生命観に基づく概念で、「心の状態とは関係のないもの」ということになります(これが西洋医学の見方)。

 それは、「故障がない」「異常が見つからない(=病気と名のつく物がない)」という(病理学的な)体の捉え方であり、これが科学的健康観というものです。

 デカルトの「心身二元論」は心は頭(理性)で、体は肉(物質)なのです。このような伝統により、西洋には「身体の訓練は心の訓練を意味する」という考え方は最近まで全くありませんでした。

 これは、東洋と西洋の、人間観の伝統の大きな相違なのです(最近では西洋で、禅を始め合気道や剣道という東洋宗教文化に対する関心が高まっている)。

 こうした科学的身体観が常識となっている現代、日本人として改めて(初めて?)、東洋の「修行」について学ぶことは、活元運動を体得するに当り、活元運動にある可能性 ―― 引いては自身に潜在する可能性 ―― を啓くことの理解を深めることができます。

 野口整体は「潜在生命力を喚起する」ことで、先ずは自然治癒力の発動を目的としますが、活元運動は「動く禅」と呼ばれ、禅修行同様、自己を啓くものなのです。

 活元運動に取り組む上で「禅に取り組む心構えを知る(=修行というものを知る)」ため、3の湯浅氏の文章は意味のあるものです。