5 東洋宗教に共通する基礎体験は「瞑想法」― 瞑想法としての理解を持って行ずる野口整体
湯浅泰雄氏は、東洋宗教(儒・仏・道教)に共通する「修行法」の基礎体験として、儒教の「静坐」、仏教の「坐禅」、道教の「練丹(註)」「導引(註)」を挙げ、これらが「瞑想法」であると述べています(『気・修行・身体』第二章)。
(註)練丹 心気(心と気)を丹田に集中して心身を練る術。
導引 身体を屈伸して正気(せいき)(天地にみなぎっている至公・至大・至正な天地の気)を導き、身心を調整する養生術。
瞑想(註)とは、「内なる世界」を見つめる訓練であり、「内」とは体の内部(内臓のことではない)、「こころ」また「たましい」の世界を意味しています。
それは、目覚めている時に考えることを止(や)めることであり、「考えないという意識」を持つことです。
思考が止まない(=感情が静まらない)のは、腰が自分の身の内でなくなっているからですが、腰が据わる(腰にきちんと力が入る=腰を身の内にする)ことで、意識のはたらきを静め(考えることが止まり感じることができ)、心を深めることができるのです(それで、内なる自然・無意識とつながる)。
瞑想は自身の身体の内側に向かい、沈黙と静(活元運動の場合「動中静」)の状態をできるだけ長く保持する訓練を通じて、心の底の方から湧き出してくる雑念を流し(流れることで無くなる)、心が澄みきった状態を経験することを目指します。
「無我」とか「無心」、つまり自分という意識(自我意識)が消え去った状態です。これを習慣づける(日常化する)と、日々生じている雑念が取り除かれ、必要・不必要な情報を整理する心のはたらき(脳の作用)となります。
心が澄んだ状態を目指す瞑想法は、心理学的にみれば、自分の内に見出される特有の心の動き方(心のくせ・心の傾向)に注意し、そのはたらき方をコントロールすることで、その傾向をもたらしている「感受性の歪み」を次第に変えてゆく訓練なのです。
野口整体の個人指導・活元運動は、このような心理的理解を以って行うことが肝要で、東洋宗教修行同様、自己に対する信頼を培う瞑想行なのです。
(註)瞑想法
一般的な瞑想法の説明は、姿勢を正して坐り(腰骨を立て上体の力を抜いて)、呼吸に意識を集中する。外界に向いていた意識を、内界(皮膚とその内側)・身体感覚や呼吸に向けて、只管に坐る(只管打坐(しかんたざ))。
考える理性的な意識のレベルが下がり、変性意識状態に導かれる(活元運動の場合も同様)。この変性意識状態が、一時的「自我の消失(無我・無心)」であり、DMN機能(6に詳述)を十全ならしめる。