野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 二7

7 主体的自己把持感覚で無意識を捉える― 身体感覚とは、身体の状態に対する内的感覚 

 日本で、古来の神道と、儒・仏・道教が一つとなって完成していたのが「道」であり、道を体現するための身体を、「型」によって養っていたのが「腰・肚」文化です。

 日本の身体文化「型」は、「身体性」を向上させるためのもので、こうして養われた「上虚下実」の身体は、無意識のはたらき(魂)を意識に統合し、その明瞭さをもたらします。

 それは何が大事か、が分かる、つまり善悪の基準を持つことができるもので、身体性とは心の能力であり、自身を制御するはたらきなのです(「道」は、無意識・本能に基盤を置く)。

 このような心は、身体感覚に始まるものです。

 湯浅泰雄氏は、東洋的身体が「主体的自己把持感覚を重視する」ことについて、西洋近代医学の「客観的身体」と比較しながら次のように述べています(『気・修行・身体』第二章)。 

1 心・気の一致ということ

…西洋では、「からだ」も「物体」も同じbodyという言葉で間に合わせるが、日本語では「からだ」と「もの」はまったく別である。…自分の身体は外界の物体とは性質の違ったものだと感じている。…「からだ」には「いのち」、つまり生命があるが、無機物には「生きている」という感じがない。

要するに、「からだ」は「こころ」と「もの」の中間にあって、この両者を結びつけている存在であり、そこには「いのち」が感じられる。東洋の身体論は要するに、「からだ」における「いのち」の構造を、「こころ」と「もの」の両方から探求していく企てだともいえる。

もう少し厳密ないい方をすると、西洋の近代医学の身体観では、まず解剖学的に身体をさまざまの器官に分類し、つぎにそれらの生理学的機能を調べて、身体のメカニズムを考える(ハーヴィによって確立された機械論)。

この場合、身体のメカニズムは、物質のメカニズムと同じように、客観的にとらえられる(このようにして得られる身体像を、かりに「客観的身体」とよんでおこう)。しかし身体は、このような客観的観点からばかりでなく、その内側(心の世界)から、いわば主体的にとらえることもできる。

…ここでさしあたり問題になるのは身体感覚(註)である。身体感覚とは、自分の身体の状態についてわれわれがもっている内的感覚である。

(註)身体感覚 体性内部感覚(皮膚感覚・深部感覚・平衡感覚・内臓

感覚)と四肢の運動感覚を合わせた全体は、全身内部感覚、または身体感覚(セネステーシス)と呼ばれる。これは自身の身体の状態について感じている意識である。

…広くいえば、このような身体感覚もむろん意識(つまり心)の状態に属する。しかしわれわれはふつう、これを思考とか感情といった狭い意味の心の作用から区別してあつかっている。それは「からだ(について)の感じ」である。

医者が患者の身体の状態を診断するときには、まずこれを訊ねてから、客観的身体の状態を知る手がかりにする。要するに身体には、外から他人の身体を観察するときの客観的側面と、自分が自分の身体を内から感じているときの主観的(あるいは主体的)側面とが区別されるわけである。

東洋の身体論の特徴は、この場合、内から感じられる自分の身体についての主体的自己把持感覚を重視するところにあるといってもよいであろう。

…気は、単なる日常ふつうの意識によって認知される作用ではなく、呼吸法や瞑想による心身の訓練を通じて、意識(心)がしだいに感じることのできるようになるような新しい作用である。

…東洋の修行法については近年、深層心理学の立場から研究されるようになってきたが、そういう観点からみれば、気の問題はおそらく無意識の領域にかかわるものではないかと考えられる。

それ(気)はさしあたり、セネステーシス(全身内部感覚=身体感覚)の底から顕現(はっきりとした形で現れること)してくる一種の力感として、直観的に感得される作用である。

「日本の身体文化」という言葉の「身体」とは、肉体と表現する時の「からだ」とは異なるものです。ここでの肉体とは、右の文章にある「客観的身体」であり、極言すれば「解剖学的身体」なのです。伝統的な「身体」とは主体的自己把持感覚を有する「主体的身体(内側から主体的に捉える身体)」なのです。

 敗戦後の日本社会では、日本人から「腰・肚」に中心を把持する身体感覚が失われ、私の立場から最も訴えるべきは、日本人の身体が主体的身体から客観的身体へと大きく変化したことです(明治以来の西洋化による「身心一元論から心身二元論へ」のシフト)。

 身体感覚は、感情と「身体」が密接不可分であることを理解する上で大切なものです。「もの」としての体と、「こころ」である感情を、一つのものとして捉える身体感覚は、野口整体において重要な「意識(心)」なのです。