野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 二8
8 科学は身体性から離れる―「主体的身体」を育てていた日本の「腰・肚」文化
野口整体の整体指導(個人指導と活元運動)を求め、健康に生きたい、元気になりたいと思いながら、その人自らがそのように生きていない人が多い、というのが私の思いです。
「自分だけでは元気になれない」と思い込んでいるのでしょうが、「元気に生きる」という「主体性というもの」を知らない、「主体性」が育っていないのです。その第一が、元気という「心」になるのに「体」を先立てるという、「型」の文化(「腰・肚」文化)というものを知らないでいるからです。
「型」の文化は、禅の、道元の「身心学道(註)」を一般化したと言えるものです。
(註)身心学道(しんじんがくどう)
心が身体を支配するのでなく、逆に身体のあり方が心のあり方を支配するという立場に立つ。身体を心より上位において重視する態度。
身体性の教育とは、「主体性」を育むためのもので、「無意識」に具わる可能性(=自己・Self)を啓く上で「主体性」は不可欠です。
禅には「随処に主となれば、立処皆真なり」という言葉があります。これは「どんな環境にあっても自己の主体性を失わず、何者にも影響されること無く、常に自らが主人公となって物事を処理してゆくことができれば、どこにいても真理を具現することが出来る」という意味です。
このように外界にはたらきかける主体性を発揮するには、自己の身体を主体的に捉えることから始まるのです。これが「腰・肚」文化でした。
しかし、敗戦後の伝統文化の衰退・道の喪失と戦後の科学的教育においては、日本人としての「身心の成長のあり方」を失い、科学的理性のみの発達をもたらしました。
理性の教育は意識の能力を育て、身体性の教育は無意識に具わる能力を啓くものです。
フロイトに始まる深層心理学は、無意識が身体にあることを解明してきました。この無意識(=主体的身体)を忘れたのが現代日本人の問題です。意識・無意識の能力とは、頭脳知・身体智と言い換えることができます。
科学は理性至上主義ですから、意識(頭)に偏り身体性が衰退するのです。つまり「科学は身体性から離れる」という、ここに、私が「身心一元論」を主張(=「腰・肚」文化の復活を提唱)する理由があるのです。