野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 三2

2 西洋思想の基盤となったプラトン哲学―「理性」の重視と「二元論」

  デカルト心身二元論は、古代ギリシア・ヘレニズム時代(前334~前30年)(註)に発展した二元論的世界観に基づく「霊肉二元論」に端を発する考え方です。このような考え方の基となったのは、ソクラテスプラトンと続くギリシア哲学でした。

  ソクラテス(前469~399年)は、人間の理性を信頼することによって「誰もが承認できる普遍的で客観的な価値判断の基準」を主張し、その探求を提唱しました。ここに西洋思想の基となる「哲学」が始まったのです。

 このように、永遠不変なものを捉える理性を信頼する態度を合理主義、または理性主義と言います。「理性とは物事の本質を見抜く力であり、本質とは概念的・精神的にとらえられた姿であり、客観的な真実である。このような真実をとらえることができるのは人間のみなのである。」とされました。

 その弟子プラトン(前427~347年)は、師ソクラテスが切り開いた理性主義の地盤を踏み固め、あらゆる存在をイデア(形相)とヒュレー(質料)(註)に分け、二元的に理解する思想『二分法』の出発点となるイデア論を考案しました。そしてイデアという「普遍的で客観的な知識の対象」が実在すると主張したのです。

 ヒュレー(質料)は、感覚的に(五感で)捉えられるもので、変化消滅する低次の存在とされました。

(註)イデア(形相)

 古代ギリシア語でイデアは物の姿や形を意味する言葉。プラトン哲学においては理想像を意味する中心的概念。心(魂)の目によって洞察される物事の真の姿、事物の原型のこと。

ヒュレー(質料)

 古代ギリシアの概念で、ヒュレーは諸々の、物や事柄の素材。形式をもたない材料が、形式を与えられることで初めてものとして成り立つ、と考えるとき、その素材、材料のこと。 

 プラトンは、物事の本質や真の姿を捉える能力を「理性」と考えていたのです。理性によって捉えることができる「イデア」とは、具体的には次のようなものです。

(資料)HP「哲学概論」第6回

プラトンは、哲学的思索をするための訓練として幾何学の学習を弟子たちに勧めている。その幾何学的な図形を書く実際の有り様が、この「魂の目」と「イデア」の関係をわかりやすく例証している。

たとえば、数学の教師が黒板に描く三角形は、厳密に見ると三角形ではない。たとえ定規で三角形が書かれたとしても、黒板はわずかに曲がっていたり、凹凸があったり、あるいは、書かれた線の太さも一様ではない。本当の三角形は、黒板にはなく教師の頭の中に観念(イデア)として存在する。教師は、頭の中にあるこの理想的な三角形を魂の目で見ながら、黒板にその写し(模像(もぞう))を描いたのである。

 プラトンは、この理想的な三角形を「三角形のイデア」と呼び、それは我々の心の目で見られるものだとした。教師が黒板に書いている三角形は、この「三角形のイデア」の曖昧な写しでしかない。教師は、この理想的な「三角形のイデア」を心の中に思い浮かべながら、それを黒板に写している。

…こうしてプラトンは、現実の世界とは「別の場所に」、時空を超えたイデアの世界すなわちイデア界(叡智界)が「天上(青空の裏側)にある」と想定し、このイデア界を真に存在する世界(真実在の世界)とした。現実の世界は、多様に変化する無常の世界(現象界)であるのに対し、後者の天上にあるイデア界は、永遠不変の世界である。

  プラトンは、私たちの魂はもともとイデア界(青空の裏側)にいて、それが受肉してこの世界に生まれたのであり、かすかにイデア界の記憶を持ち続けているために、魂の記憶としてイデアを観ることができるのだ、と説明しました。

 彼の思想(二分法)は、後の西洋文明の形成に決定的な影響を与え(註)、人間は霊と肉によってできているという「霊肉二元論」的人間観が、西洋思想の基底を貫くものとして受け継がれていきます。

 西洋思想史は、「理性」の意義強化と「二元論」の歴史であり、後に17世紀、これがデカルト心身二元論として結実し、その後の科学文明発展の基盤となりました(理性と二元論の最たるものがデカルトによる心身二元論で、人間は精神と物体からなるという考え方が確立した)。

(註)古代キリスト教神学者アウグスティヌス(354年~430年)

 キリスト教思想と新プラトン主義(プラトン哲学の発展形態)を統合した。彼はキリスト教ローマ帝国によって公認され(313年)、国教化(392年)された時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語カトリック)圏において多大な影響力をもつ理論家。

(註)ヘレニズム時代

 紀元前338年頃、ギリシアの北方の国マケドニアの国王フィリッポス二世は全ギリシア世界を支配するようになった。その息子アレクサンドロス大王は、紀元前334年東方遠征を行ない、ギリシア・エジプトからインダス河西岸(中東)までの広大な地域をマケドニア大帝国とした。

 東方遠征から、紀元前30年(マケドニアの最期の地域「プトレマイオス朝エジプト」がローマ帝国に併合される)までの時代に、ギリシア文化が西アジアの文化と融合していき、この時代をヘレニズム時代と言う。そして、この時代の文化をヘレニズム文化と言い、ギリシア文化は超民族的・普遍的性格を持つようになる。

 ローマ帝国の属州となった後も、文化的にはギリシアローマ帝国を圧倒し続けた(ヨーロッパ文明の源流となる二つの要素として、ヘブライズムとヘレニズムが示される場合、ヘレニズムは古典古代(ギリシア・ローマ)の文化におけるギリシア的要素を指す)。