野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 三3①
前回はデカルトの背景にあるプラトン哲学の解説でした。今回はデカルトの思想が私たちにどんな影響を与えたのか?という内容です。
特に物事を「疑う」主体が私=精神であるという定義が、ここでの焦点になっています。すべての物事を疑う主体が「私」であっても、理性と近代科学は疑わないというのは、近代という時代における盲点でした。
そこで、「疑う」のが得意な現代人は、まず近代科学に疑いの目を向け、理性を基にした「私」のあり方にも疑いを向けてみる必要があります。それが科学哲学や深層心理学を学ぶ意味である…というのが金井先生の考えでした。
それでは今回の内容に入ります。
3 現代人の「心の世界の狭さ」を生み出したデカルトの理性至上主義
― 心身二元論における「私」=思考する精神(理性)
②現代人の心の世界を狭くした「理性」
デカルトは、この世の真実にたどり着くために、あらゆるものを片っ端から疑っていきました。これを「方法的懐疑」といいます。この世の疑わしいものを一つ一つ否定していきながら、部屋にこもって九年かけ、彼はあるひとつの結論に至りました。
それは「この世のものは疑わしいものばかりだが、全てを疑っている私の精神だけは確実に存在している」という考えでした(これが後述する「我思う、故に我在り」)。
そこで彼は、確実に存在している「すべてを疑う私の精神」を哲学の第一原理に据え、「理性」をはたらかせ、明晰で判明な真理を獲得する方法を提唱したのです。
つまりデカルトは、人間の肉体をもこの世の疑わしいものと捉え、精神世界と物質世界の分離を主張します。これが「心身二元論(物心二元論)」です。
デカルトの心身二元論は、『精神』と『肉体』は、人間においては結合し融和しているが、互いに影響しない(心と体は無関係)というものでした。
私たちが「意識」と呼んでいる作用には、実は「感覚・思考・感情」の三つがありますが、彼の言う『精神』とは、意識のはたらきの内で「思考」のみを指しています。
感覚(註)や感情という 体に即した心のはたらき(感性)を含まない思考のはたらき「理性」が、彼の言う精神です。デカルトは、感覚や感情は『肉体(物質)』に属すものとして『精神』から除外したのです。
(註)感覚 科学的認識には、感覚の中で視覚のみ特化して用いられる。
そして「精神」は人間だけが持つものとし、他の動物は全て物質的存在(肉体)のみからなるとされ、「精神」のはたらきとしての思惟(知的精神作用)こそが人間の価値であると考えたのです。
このようなデカルトの考えの基には、「私とは、『思考する精神』である」との堅い信念がありました。
こうして、デカルト哲学では、外界に対する認識力として理性(による「思考」)のみが重要視され、感覚と感情が認識力から切り捨てられたのです。
デカルトは、この「私」について次のように述べています(『方法序説』谷川多佳子訳 岩波文庫)。
身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。
これが有名な「我思う、故に我在り(コギト・エルゴ・スム)」です。私とは霊魂であり、それは理性だとするのがデカルトでした。
このような「私」の認識力である「理性」により、永遠不変の真理を捉えることができる、としたのです。
(彼が世界認識の中心に個人の意識(理性)を持ち出したことは、哲学史上におけるコペルニクス的転回といえる(スコラ哲学→近代合理主義哲学)もので、信仰を離れた「理性」を、古代ギリシア哲学以降(約二千年後)初めて打ち出し、人々の共通の認識の基盤に据えた。デカルトはプラトン哲学を再評価し、プラトン的『理性』の重視を掲げました(プラトン・イデア論による二分法を受け継ぐ)。