野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 三5

 今回は、中巻『野口整体ユング心理学』の「自分のことから始まるユング心理学」につながる内容です。金井先生は、河合隼雄の「科学が人間の心に与えた影響」についての思考の深さに非常に感じ入っていました。科学の観察では見えないものがあり、それは何か?というのが今回の主題です。

5 近代科学の特徴「理性による客観的認識」とは

 近代科学的態度とは、物事を「理性」のはたらきによって認識し思考することです。これは、観察対象より切り離され確立した「自我」(近代自我)が、対象を客観的に観察(見るものと見られるものが分離し、主客が対立)する、ということです。科学的認識とは理性によるものと限定されたのです。

 このような近代哲学は心理学にも影響を与え、科学的心理学が発達しました(例・行動心理学)。これに対し、西洋で十九世紀の終わりから発達したのが、フロイトに始まる深層心理学です(深層心理学は「主観」の歪み・偏りを扱う)。

自分で自分の研究をすることから始まる深層心理学は、観察するものと観察対象が一つ(他者を観察する場合も「つながり」が必要)ですから、近代科学ではないのです。

 このような深層心理学を学んだ河合隼雄氏は、次のように述べています(『心理療法序説』)。 

1 科学の知

…科学の知においては、世界や実在を「対象化して明確にとらえようとする。」これは、対象と自分との間に明確な切断があることを示す。このことのために、そこで観察された事象は観察した人間の属性と無関係な普遍性をもつことができる。ひとつのコップを見て、「感じがいい」とか「これは花をいけるといいだろう」とか言うときは、コップとその発言者との「関係」が存在し、その人自身の感情や判断がはいりこんでいる。つまり、コップとその人との間の切断が完全ではない。このため、そのようなコメントは誰にも通用する普遍性をもち難い。これに対して、コップの重量を測定したりするとき、それは誰にも通じる普遍性をもつ。

 この「普遍性」が実に強力なのである。それがあまりにも強力なので、客観的観察ということが圧倒的な価値をもつようになり、「主観的」というのは、科学の世界のなかで一挙に価値を失ってしまう。

「対象化」とは、見られるものを、見るものが引き離す(切断する)ことを言います。

「対象化して明確に捉えようとする(=客観的観察をする)」主体は「理性」というはたらきです。

「対象と自分との間を明確に切断する」理性とはどのようなものかについて、私として考えてみました。

「水」というものを科学的に表現すると「H2O」になります。酸素原子一個に水素原子二個が結合して水の分子一個が形成されている。これは、科学的な「普遍的真理」なのです。このような理解が、「水」を「理性」によって科学的に認識した、ということになります。

 ところが、広く「水とはどんなものでしょう」と質問した場合、「冷たいもの」と答える場合は、「触覚」による温冷を判断し、「美味しいもの」と答える人は「味覚」に依っているわけです。このように、「水」を何に依って捉えるかによって「認識」が違ってくるわけで、これは、「感覚」の種類による認識の相違です。

「感覚に依って捉えている」ことは、自分(内なる世界)との直接的なつながりがあります。「H2O」という、科学(理性)的認識というものは、自分に直接的な関係(=感覚による自分とのつながり)があるものではありません。これが、対象と自分との間に「明確な切断がある(=物心二元論)」ということになります。

 触覚や味覚という「感覚」による判断は主観的であり、「普遍性」がありませんが、「理性」による認識は客観的であり、「普遍性」があるというわけです。ここに、「普遍的真理」を探究する科学は理性至上主義となっている理由があります(ただし感覚の中で使われる唯一の例外が視覚)。

 河合氏の文章にあるように、

「ひとつのコップを見て、「感じがいい」とか「これは花をいけるといいだろう」とか言うときは、コップとその発言者との「関係」が存在し、その人自身の感情や判断がはいりこんでいる。」。

 これは、主観に因って物と人間が一つになっている「物心一元論」ということになります。そして「切断がない」ということになります。

「心」全体から見ると、「理性・意識」のはたらきは一部のものですが、「理性」による思考は客観的であり、何より「普遍性」があるのです。

 そのため「感覚や感情」といった主観は、「普遍性」のないものとされ、否定されるようになったのが、科学的認識というものです。

 こうして、「心と体をつなぐ」はたらき(感受性)である「感覚・感情」は、近代科学では排除されるもので、対象を捉える手段とはならなかったのです。ですから、敗戦後行われてきた科学的(理性至上主義)教育のみでは、主観は発達しないのです(全体性・関係性を捉える能力は主観による)。

 これに比し、野口整体の指導は、相手とのつながりの上で「主観」による観察での判断に依っているのです。主体的に感覚・感情を使うことで、心の力としての主観が磨かれていくのです(これを絶対主観と言う)。