野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 一 2
2 正体・正心(正気)による知覚・認識― 近代科学と東洋宗教を相対的に理解する
「心焉(ここ)に在らざれば、視(み)れども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず。」
(心がここにない上の空の状態では、見ても正しく物を見ることはできない、聞いても正しく音を聞くことはできず、食べても本当の味を知ることはできない)
という言葉があります。
儒教では、人間の知覚・認識を「機械的な仕組み」とは考えず、「『正心・正体(正気)』によってこそ、初めて物事を正確に知覚し、正しく理解することができる」と教えていたのです。
ここには「身体性」を重視した、ただ目で物を見るのではなく、ただ耳で音を聞くのではなく、ただ舌で味を味わうわけではないという、儒教の『道徳的世界観』が存在していたのです。
これを師野口晴哉は、「見る・聞く・味わう」ことを「気を集めて」行なう(=身心統一によって感受する)と言っていたのです。
また、仏教の「八正道 (はっしょうどう)」においても、「正見(正しく物事を見る)」・「正思(正しく考える)」・「正語(正しく語る)」・「正業(正しく行為する)」など説かれており、これらは「正身(正しい体と心=正気)」によって為すことができるもので、仏教の基盤にも「身体性」があるのです。
(敗戦以前には、儒・仏教を基盤とする「体育・徳育・知育」が教育の伝統であったが、以後失われた)
これが、東洋宗教が修行(身体行)を通じて探究した身心一元性「身心統一」です。すべての東洋宗教文化の基盤には身体があり、禅が完成した日本で独自に発達した道とは、「身体性」に基づく行法であり思想なのです。
(東洋宗教が統合された「道」は行為を先立てる。ここには「気」の考え方が前提されている)
本書を始めとする「科学の知・禅の智」シリーズが意図する最も大切なことは、近代科学と東洋宗教では「心」が違うということです。
(敗戦後の科学至上主義教育の結果、日本の伝統的な心は失われ、理性(頭)のみ発達した)
東洋宗教で求めた正体による「正心」、そして、とりわけ身体感覚を重要視する野口整体の、体が整っていることによる「心」のはたらきは、高度な身体意識となります。
つまり、整体(整った体)による身体感覚は、外界に対しては確かな身体意識としてはたらき、機械論的見方とは異なる「知覚・認識」能力となるのです。
(個人指導において、指導者の主体的自己把持による意識は、「他者の隠れた心」を観察する能力となるが、現代の科学教育によって発達した理性では、例えば体癖観察は不可)
科学的な教育によって発達する心(意識)と、禅的修養によって体得する心(意識)を相対的に理解する、これが野口整体を身につける上で肝要なことであり、「科学の知・禅の智」と、私が説くのはこれ故です。