野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 一 4
4 身体に手で触れて観ることで他者の無意識と対話する
整体指導は、指導者と相手との「感応道交(互いの気持ちが通じ合うこと)」が、指導が進展する鍵となります。
野口整体の「整体操法」というものは、「乗馬」に例えることができると思います。自分の「身心」を制御できないで馬に乗ると、馬を制御することができませんが、これと同じで、調った身心を用いて相手のそれを整えることができるのです。
換言すると、相手の身心(無意識)と対話するに先立ち、「自分の身心との対話」が不可欠ということです。整体操法によって他者に働きかけるとは、自己という無意識(身体)との対話能力によって、他者の無意識(身体)と対話することです。
こうして、指導者の統一体による、相手との「気」の感応が、「自他一如」をもたらし感応道交に至るのです。
整体操法は手指で背骨に触れ、観察することにその特質があり、脊椎骨(脳髄に連なる脊髄を擁する)の状態を感じ取ることを通して、「身心のはたらき」を観察するものです。
この野口整体の方法「手で触れて観る」ことは、一般的な臨床心理の場合より、さらなるつながりの上で相手を識ることができます。それは、「言葉にならないこと」が掌で感じられるからです。
意識下に在った感情が言語化されても、何かについて述べること・語ることは、抽象化(対象から抽出する)となるからです。精緻に語り得たとしても、ある程度の抽象化は止むを得ないことなのです。(掌では「感じという領域」のまま捉える)
ここに、人が「手=触覚」を使うことの意味があると思います。
哲学者の中村雄二郎氏(1925年生)は、科学の客観的観察において「見るものと見られるものが引き離される(=対象化)」のは、「視覚の特化」によってもたらされることについて、次のように述べています(『哲学の現在』)。
二 見る・聞く・触る
…近代世界のなかでは、一見したところいかにも見ることが重視され、大きな意味をもっているようであるが、その見ることはかなり特殊なかたちのものであった。
見るものと見られるものが引き離され(対象化・客観化)、そのために五感の他の諸感覚(聴・嗅・味・触)や運動感覚、筋肉感覚(身体感覚)などによる協働が不可能になって視覚だけが独走したものであった。
しかし、視覚だけが働くこと、独走することと見ること、よく見ることとはちがう。よく見ることは、視覚を中心とした諸感覚の協働(統一力)による知覚なのである。視覚の独走に対して、他の五感や運動感覚、筋肉感覚などの働きの回復をめざすことは大いに必要である。
五感のうちでとくに触覚は、視覚ともっとも対蹠的(たいしょてき)(全く正反対であるさま)な直接接触の感覚として、見るものと見られるものの分離状態をなくす上で大きな役割をもっている。
聞くものと聞かれるもの、嗅ぐものと嗅がれるものとなると分離は、いっそう少なくなるにせよ、それでもありえないわけではない。しかし、触るものと触られるものとの間では、主客を対立させる分離は起こらないからである。
触覚は「主客を対立させる分離は起こらない」という中村氏の主張には、大いに感ずるものがあります。それは、手で人を観る野口整体の方法には「主客の分離がない」というわけで、この後、第三部第二章で述べる鈴木大拙氏の「禅的な観方」に通じていくのです。
(中村氏は、この「諸感覚の協働による知覚」を、後に「臨床の知」と名付けた)
一方、西洋医学はより科学的に発展して、数値化・視覚化(MRIなど)が重要視され、検査するための医療機械が高度に発達しました。
それで、MRI導入以前に行われていた「理学所見」という、経験による感覚的な判断はよりされなくなっています。こうした現代では、聴診器の使い方も伝授されず、触診となるとなおさらのようです。
医師は問診時にパソコンの画面に釘付けとなり、患者の顔を見ることはほとんどないようです。これらのことが、医師と患者の「つながり」が図られない理由なのですが、これは、医療がより科学的に発展したからです(医師は仕事に、科学的に励んでいる)。