野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 一 5

5 掌(てのひら)(触覚)によって人間の全体性を捉える― 背骨は人間の歴史である

 中村氏はさらに、触覚が全体性を捉える直観の元となることについて、次のように述べています。

 二 見る・聞く・触る

 触覚は、他の諸感覚とくに筋肉感覚や運動感覚の助けをえて、私たちがものを摑み、とらえる働きをし、このものを手でとらえるということが知覚したり理解したりすることの原型になる。

この知覚や理解を含めてのとらえること、把握は一つの全体をとらえることであり、それに応じてとらえる方でもなにか個々の特殊感覚によるのではなく、諸感覚が出会い統一して働く全体的な直観、つまり共通感覚(註)によるのである。

共通感覚の一部としてとくに触覚は諸感覚を結びつける働きをもっている。事実、セザンヌ以来画家や建築家たちが近代世界のなかで失われた全体的な感覚を回復するために、諸感覚を統合するものとして注目したのはとくに直接接触の感覚、つまり触覚であった。

そして触覚のもつこの諸感覚を統合し、ものとものとを結びつける力は、私たちが宇宙(コスモス)そのものと一体化しようとする願望の一つのあらわれであるともいえるのだ。

 したがって、見ることが冷やかなまなざしになるのは、見られるものが見るものと引き離され、見ることのなかで見る働きつまり視覚が部分化し、共通感覚という基礎を失ったからであって、共通感覚をとりもどすならば、他の諸感覚の十全な協働によってものを親密な関係のもとによく見ることができるのである。

  中村氏は、視覚以外の感覚を排除した科学が、共通感覚(註)を失ったことで、「見るものと見られるもの」が親密な関係を失ったと述べているのです。

(註)共通感覚

五感に共通し、五感を統合する見えない内的な感覚(第六感)を指す。「common sense(共通の感覚)」の直訳で、現在では「常識」と訳されるコモンセンスの語源的意味。

 このように中村氏は、「触覚」のはたらきが持つ意味について深く言及し、視覚が特化した近代科学によって失われた「全体的な感覚の回復」について述べています。

「触覚」は手指の皮膚によるものです。発生学上、受精卵の外側部分である外胚葉(註)は全ての感覚器の基となるもので、皮膚(触覚)・目(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)は、全て外胚葉(皮膚)から分化した(皮膚となる外胚葉から五感の感覚器ができた)のです。このような視点からも、触覚(皮膚)が諸感覚を統合することは頷けます。

 野口整体の個人指導で、眼で観、手で人に触れ、観察することは、「気で気を観る」「気で気に触れる」と言い、「気の感覚」は単なる「触覚」以上のものがありますが、中村氏の説く「触覚」は、野口整体で「人間を捉える」ことの説明として十分なものを感じます。

 師野口晴哉は「豚は鼻で行動し、人間は手で行動する」と表現しました。

直立二足歩行を獲得した人間は、歩くことから解放された手でものを掴むことで、親指が発達しました。

親指を使うことで、脳の言語中枢が発達し、言語を得て、言語から文化が発展したのです。言語は文化の基本であり、言語の有無が人間と猿とを分けていると言うことができます。

 直立二足歩行が可能なのは足の親指が発達したからで、親指・小指・かかとの三点支持により片足でも立つことが出来、それで直立して歩くことができるのです。

 手も足も、親指の発達が「人間らしさ」であるのです。

 さらに、人間としての手のはたらきは、指先の敏感な触覚によって、精緻にものを認識することができるものです。そして手先の器用さにおいては、世界中で日本人が突出しているようです。

「背骨は人間の歴史である」とは、私が初めて受けた、師の講義の始めの言葉です。背骨に触れて観ることで、その人間の歴史をも観ることができるのは、眼のみならず、熟達した人間の手によるものであることを、この言葉は教えています。

(註)外胚葉 卵子は受精後半月ほどで細胞分裂して三層(外・中・内胚葉)に分かれる。外胚葉は、20~21日目になると一部が厚くなって内側にくぼみ、溝になる(神経溝)。やがて神経溝は管状になり(神経管)、神経の基礎ができる。体表に残った部分は表皮になる。このように、表皮と神経系は同じ外胚葉から発生し、皮膚、神経、脳・中枢神経系、感覚器官として発達する。