野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 二 1②

1 心のはたらきをすべて脳の機能で説明することはできない

― 心身結合の事実を無視した近代科学

②脳の解析で心全体を解明できるのか

しかし、この還元主義の見方は、ある一定の範囲までは妥当しますが、すべてを説明しつくすことはできないということが次第に明らかとなってきました。

 脳科学ペンフィールドや神経生理学者プリブラムらによる「記憶の作用(補)」の研究によって、心理作用には局在説では説明がつかない場合がある事実に突き当たり、心と脳の関係を新しい視点でとらえ直そうとする見方に移って行ったのです。

(「心は脳にある」という西洋の伝統的な考え方が、不確かなものであることが学問的に立証された)

そして、心の本質は脳のメカニズムに還元することはできず、心は、脳から独立して(ただし、脳と密接な相関関係を持ち)機能する、ある種の実体(存在)と捉える考え方、つまり心と脳を別物と見る、しかし「精神と身体には密接な相関関係がある」ことを認める二元論に至ったのです。

デカルト的二元論から新しい二元論に至ったことは、ニュートン力学から量子力学へと世界観が移ったことに似ている)

 さらに、「うつ」症状と脳内物質の問題 ―― 還元主義では、一定の生化学的物質の分泌が原因で一定の心理状態が結果として生まれると考える ―― も、実は両者の相関関係にすぎず、「物質→心」が真の因果関係であるかは不明なのです。

 情動を対象とする私の立場からは、喜怒哀楽の感情は全身的なもので、身体のある部分とのみ結びついているものではないことが断定できるものです。

 湯浅泰雄氏は、科学的心身観について次のように述べています(『気とは何か』)。 

体表医学と開放系の人間観

デカルト的二元論に立つかぎり、身体は既に自分(自我意識)にとっては「外」の世界に属することになる。したがって近代的見方では、医学が身体について考察するときは心の問題はすべて除外し、身体を客観的(物質的)な一種の「物体」としてとらえ、意識の問題は哲学や心理学に任せる外はないのである。

しかし、自分の身体(からだ)を自分の外にある物体(もの)と同じようにみることは、常識の理解とはちがっている。したがって近代科学の立場では、常識の理解と科学の理解が食いちがい、心理的問題と生理―物理的問題は無関係になってしまうのである。

要するに、近代科学の論理は、われわれの日常的常識である心身結合の事実を無視した方法論から出発しているわけである。大きくみればこのことは、科学の論理がわれわれ人間から遊離して一人歩きし、逆に人間の生活にマイナスをもたらすという現代の社会状況にまでつながっている問題であろう。

「気」という概念(考え方)は、このような方法論上の難点を解消する可能性を示している。

 傍線部の問題点とは、西洋医療におけるあり方が、人間の身体に対して「客観的身体観」を育てることです。それは「病症を心との関係において捉え、その意味を理解する」ことが失われ、身体に対する主体性を損なうものとなるからです。

 身心一元論そのものである野口整体の思想(と行法)は、心身二元論の科学を基盤とする現代社会の変革において、大いなる存在意義があるものと、私は考えています。

 また、「気は心と体をつなぐもの」であり、野口整体の身体の観察法(「気」による観方)では、体に心の存在を認めることができるのです。

(補足)記憶の作用

 脳という物質にすべての記憶が収納されているわけではなく、魂など非物質的な存在を認める、または脳だけではなく体にも記憶が刻まれているという説がある。極端な例では、心肺同時移植手術を受けた患者に、ドナー(臓器提供者)の気質が移ってしまうこと、などが挙げられる。