野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 二7

7 理論と実践を分離する西洋哲学の終焉― 実践を通じて高次の理論を目指す東洋宗教

  湯浅泰雄氏は西洋の知の伝統について「哲学がさまざまの学問を統合する高い知を求めたということ自体は正しかったと思います。しかし、そのための統合的視点を知的論理の形式、つまり理性だけに求めたところに疑問があった」と、「理性至上」の問題点を指摘しています。

 そして、西洋近代文明が世界を支配した時代が終わろうとしている現在の状況を踏まえて、次のように述べています(『宗教と科学の間』筑波大学退官講義―平成元年二月一日)。

序章 哲学の再生

…ここでの問題は、テオーリアの知とプラクシスの知を区別して、テオーリアの知をより価値あるものとみる態度です。

 人間が理性によって考えるということは、世界の現実の中で――具体的にいえば歴史と文化の中で――考えることであって、われわれは、現実をこえた真空状態の中で考えるわけではありません。

 近代人は、理性とか論理というものが文化や歴史の多様性をこえた普遍的なものであると信じていますが、理性は、歴史の動きの中で、また各民族の文化の伝統の中で、具体的な形をとってはたらくものです。

 理性や論理そのものは人間にとって普遍的であるとしても、それは、現実の歴史的状況と文化の多様性の中で、はじめてはたらくことができるのです。西洋の近代人は、このことに気がついていませんでした。そして現実の中では、人間は生きるためにまず行動しているのであって、考えることが先にあるわけではないのです。

 言いかえれば、テオーリアの知は、もともとプラクシスから分離できないものであって、テオーリアの基礎には、実は、それを支えているプラクシスがあるのです。

 それを分離して、神の位置から世界を眺める知が可能であると信じたところに、テオーリアの知としての〝哲学〟が生まれたのです。

物心二元論に立つ近代の知は、物質に関する知と、それをコントロールし支配する機械的技術を重視していますが、心についての技術というものは認めていません。

しかし近代以前の世界では、身体と共にたましいを訓練する技術的経験知、言いかえれば修行法の伝統がありました。

 これは東洋の諸宗教に共通してみられる伝統なのですが、現代の深層心理学や心身医学は、そういう東洋の伝統的文化遺産が、現代人の心の問題に対して重要な意義をもっていることを明らかにしています。

 私の考えるところでは、東洋における知の伝統は、テオーリアとプラクシスを分離しない知、あるいは、実践を通じて自分の心そのものを変容させる体験知としての一種の技術を示しています。

 それはいわば、プラクシスを通じて得られる高次のテオーリアの知を目指すものです。たとえば、瞑想・修行を通じて得られる「悟り」の体験は、意識の変容を通じて獲得される体験知にもとづいて人間のあり方をあらためて考え直す知を意味します。

 それは、心身をコントロールし、人間が人間自身を支配し制御してゆく技術知ともいうべきものであります。現代はそういう高い英知を必要としているのではないかと思います。

 プラトンの二分法(イデアとヒュレー)と深く結びついたギリシア以来の価値観によって、理論(テオーリア)を実践(プラクシス)に先立てた西洋(近代科学)に対して、東洋思想である野口整体では、理論が実践に先立つことはなく、二元対立もありません。

 また、湯浅氏は同著で「東洋の智の伝統は、実践、殊に心の内面的体験の世界に対する実践的認識を通じてのみ到達できる高いテオーリアを目指している」と述べています。

 整体操法という体に対する技術(プラクシス)は、同時に心の世界に深く関与する智慧でもあり、こうした技術を用いて得た身体性による認識を以って、人間を理解する哲学(テオーリア)が野口整体なのです。

 西洋医学における「病症と健康」という二元対立を越える思想として、師野口晴哉の「風邪の効用」があります。

 ここでは、プラクシス(実践・行法)からのみテオーリア(理論・思想)が生まれます。「風邪の効用」の思想は、「病症を経過する」ことで、自然治癒力を実感するという、身心の内面的体験を通した実践的認識としての高いテオーリアであることが、湯浅氏の説く東洋の智の伝統に一致しているのです。