野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 三 2

2 身心一元で宗教と医術、教育と体育をひとつに

 日本の伝統では、「『知・情・意』の円満な発達」と言われて来ました。「知」は知性・理性、「情」は感情・感性、「意」は意欲・徳性を指しています。

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、同様のことを「ロゴス・パトス・エトス」と表現しました。「ロゴス(logos)」は論理・理性、「パトス(pathos)」は感情・感性、「エトス(ethos)」は人格・徳性に当たります。

 デカルトに始まった近代合理主義哲学は、意識から、感情や感覚、身体(無意識)を切り離し、「理性」を発達させてきました(第三章 三参照)。近代哲学では、理性こそ人間の「精神」である、となったのです(=デカルトの新プラトン主義)。

師は次のように続けています。 

潜在意識 3

 本当はもし心と体とを分けたなら化け物で、人間は機械でもなければ、幽霊でもない。皆心身一如になって生きている人間ばかりです。だとしたならば、生理学で体を研究し、心理学で心を研究している研究様式には非常に無理がある。

当然分かれていないものを無理に研究の方法として分けてしまっている。そういう研究は心にも体にも現実に役に立つものでないということは誰でも分かるはずなのに、心理学や生理学があるために人間の心と体があたかも別なもののように思っている(心身二元論)のはおかしいのです。

…生理から体を見る、心理から心を見るという見方の中にある誤りが分からないから、宗教と医術が離れていたり、教育と体育(頭の勉強と体の訓練)が分かれていたりするのだと思うのです。

本当は体育というのは体を丈夫にする健康法という意味なのですが、体を丈夫にすることと競技であるスポーツはまったく別のものなのに、同じになってしまっている。

そして本来、体育と学校の教育とは一つでなくてはならないはずなのが、一つでないのです。皆別になってそれぞれの専門家がある。それはやはりそういう研究様式なり何なりが、ちょっと間違えているからではないかと思うのです。

心のことと体のことをひっくるめて、それらを一つものとして考え、体の丈夫になる心の使い方とか、心が丈夫になる体の使い方とかいうことが考えられなくてはならないと思うのです。

  右の文章、特に太字部分は、野口整体が「身心一元論」であることを明確に表しています。「体の丈夫になる心の使い方とか、心が丈夫になる体の使い方」と、師が語る「心」が、現在意識に対する潜在意識です。それで、野口整体では「潜在意識教育」と言うのです。

 かつての論語素読は、「国語と体育が一つ」というもので、理性(現在意識)的に理解するというより、身体(潜在意識)で身に付ける(体得する)、というものでした。