野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 三 3

3 主客未分・心身一如で個人を育てる野口整体

 さらに師は次のように続けています。 

潜在意識 3

最近は政府でも「体力づくりで丈夫な心身をつくる」などということを標語に打ち出しましたが、その心身の研究様式をバラバラにしているから、丈夫な体をつくったって、心が弱いままであったり、一見丈夫に見える体でも実は弱かったりということが出てきてしまうのです。それは人間の心と体が一つものであるということが学問的に解明されないからなのです。

 人間が一人一人だという当たり前のことも学問としては存在していないのです。要するに個人がないのです。人とか、民衆とか、大衆とか、国民とか、人民とか、そういう名の下にあるだけで、一人一人というものは学問の対象になっていないし、まして一人一人の体の内容や心の内容は全部学問ではないのです。

 「人(ヒト)」は生物学(自然科学)、「民衆とか、大衆とか、国民とか、人民」は、社会学政治学・法学(人文科学)という、科学的思考による概念です。これは、このように呼称する人(主体)が、人間を対象化し(=自分から切り離し、客体として捉え)た概念で、その中には自分が入っていないのです(概念化は科学の特徴)。

対象化しない(=気のつながりによって捉える)智、つまり人間を主体(見る者)と客体(見られる者)に分けない智、これが、野口整体の「禅の智」なのです。 

潜在意識 3

そういう(個人を対象にする)学問がない人があたかも人間の専門家のような顔をして、一人一人に対して何かをやろうとすると、当てずっぽうができてきたり、こじつけが出てきたりして、実際の一人一人を丈夫にしたり、一人一人の心を豊かにしたりということは、結局学問がないためにできないのです。

 学問がこれから心身一如としてさらに発達するか、あるいは今のまま物の科学としてだけ存在するか、それがこれからの世の中を大きく左右すると私は思うのです。

もし今のまま人間を機械と同じように見ている学問だけだったならば、健康な心身をつくるということ自体が難題なのです。実際我々は愉快なら飯は旨いし、飯が旨ければ顔色はいいし、飯がまずければ何か感情が悶えているし、そういう心身一如であることをみな知っているのですが、そういう具体的な事実としてあることが、学問としては存在していないのです。

   特に、この最後の段落は、常識と離れてしまった科学(心身二元論と機械論的生命観)に対する批判となっています。

本書の内容は、このような師の教えが、私において長年かかって花開いたものです。

 当時野口整体が、社会的に、歴史的にどのようなものであり、そして、科学がどのような体系であるかなど考えることすらなく、また考える力もなかったわけですが、教えを受けた間に、本書を考察する素となるものが私の潜在意識に播かれていたのです。

 今更ながらに、講義で「潜在意識に何気なく語りかける」という師の「心の力」に深遠な念いを抱くものです。

 最後の引用文中の「心身一如」という言葉は、日本臨済禅の開祖・栄西の「心身の理想の状態」を指す言葉です。しかし、師は「人間はいつでも心身一如なのです」という、意味深長な言葉を遺しています。

(これこそ「心身一如」という言葉の正確な理解であるが、ここでは深くは触れない)

 人間はいつでも「心身一如」