野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第五章 東洋宗教(伝統)文化を再考して「禅文化としての野口整体」を理解する 二 1①

二 近代化と人間の重心位置の変化 

 今回から第五章の中心、二に入ります。で、「重心」という言葉が分からないという人もあるかもしれませんが、近代化が進む過程で起きた日本人の心と体の変化が主題ということ押さえておいてください。

 こうした変化が顕著に現れるのが「身長」です。近代化が最初に始まったのは西洋ですが、19世紀半ば以降の150年間で平均身長が10センチ以上伸びました。

 中でも19世紀初頭のイギリスでは、イギリスの上流階級の若者(サンドハースト陸軍士官学校の学生)とイギリスの労働者階級の若者(マリン・ソサエティの少年)の平均身長の差は22 cmに達しました。ここから、支配階層から身長が高くなっていったことが伺えます。

 日本では江戸時代に平均157 cmと、歴史時代では最も低くなった後、明治以降、急速に高くなりました。他のアジア諸国でも、近代化と経済発展に伴い高身長化が進んでいます。

 こうした世界的な高身長化の理由は、たんぱく質の摂取量、一人の女性が産む子ども出生数減少など、さまざまな相関性が指摘されてはいますが、要因はまだ特定されていません。また、高身長化はメリットとデメリットがあり、どのような適応の結果なのかもはっきりしていません。

 脳神経学者A.ダマシオは、人間がなぜ意識を発達させてきたのか、そのために何を犠牲にしてきたのかを研究し、その要因として心の衝立―命の流れである身体の内部状態を部分的に排除するための―があることを指摘しています。

 この心の衝立を、人間は文明の発展とともに強化したのですが、「情動と感情がまぎれもなく身体に関するもの」だということが分からなくなったというのです(『意識と自己』講談社)。

 こうした問題のキーワードが「重心」で、重心の位置と身体感覚は整体を身に付ける上での中心となっています。では今回の内容に入ります。

1 近代化に抗して「生きた体と心」についての智を拓いた日本人

― 西洋的理性で捉える客観的身体と東洋(日本)的感性で捉える主体的身体

①近代化過程に起こった伝統的な身体観に基づく健康法

 明治7年(1874年)、維新以来の西洋近代科学文明を範とする政策による医制が発布され、日本の医療は近代医学に一元化されました。

しかし当時の近代医学では、病理学的研究は急速に進んでいたものの、診断と治療とは別の行為であり、すぐに病の克服に結びつくわけではなかった(医学的研究は進んだが、医療による治癒効果は少なかった)のです。

 こうした背景の下、近代化が進んだ明治末から大正・昭和の初めにかけて、各種の健康法や代替療法の実践者たちが現われました。

日本近代とは、感染症コレラ結核などの伝染病)の大流行とともに西洋医学による客観的身体観が急激に普及した時代であり、同時に近代化に伴う社会不安や不適応が人々に拡がっていました。

このような時代背景の下、日本人の「心の拠り処としての身体」が求められ、伝統的な身体観に基づく健康法が興って来たのです。

 彼らの運動は、近代化に伴う「生活の激変」により、日本人の伝統的な身体が破壊されていくことを看過できない、という思いからの「日本の身体文化」復興を意図したもので、これらの健康法の基本には「坐」と「呼吸」がありました(昭和6年野口晴哉『正座再考』(序章)、『正しく座すべし』(第三部第一章))。

主な人々として、「調和道」(当時は息心調和法)の藤田霊斎(1868年生)(註)、「静坐法」の岡田虎二郎(1872年生)、「腹式呼吸法」の二木(ふたき)謙三(1873年生)、「森田療法」の森田正馬(まさたけ)(1874年生)、「心身統一道」を創始した中村天風(1876年生)などです。

(註)真言宗の僧侶・藤田霊斎師は丹田呼吸法を指導し、身体が「上虚下実」であることの重要性を説き、ドイツ式の近代的軍事教練による「直立不動」の型を大いに危惧された。