野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第五章 東洋宗教(伝統)文化を再考して「禅文化としての野口整体」を理解する 二 2

2 野口整体の技術・整体操法の成立― 解剖的人体観ではない「新しい人体観」の樹立

  1943(昭和18)年12月、東京治療師会に、師野口晴哉(当時32歳・精神療法)を委員長として、この時代、数多くあった手技療法(脊髄反射療法・オステオパシーカイロプラクティック・血液循環療法・手足根本療法・紅療法など)を、普遍性のある一つの技術体系として纏めるため、十四名からなる整体操法制定委員会が設立されました。

師は手技療法をまとめる上で、「生きている人間の裡から見る」身体観・病症観に着目し、次のように述べています(『野口晴哉著作全集第三巻』全生社)。 

整体操法とは何か 手技療術の沿革

それは人間が病気になる理由をその人達(制定委員)は体の外にあるいろいろのもの、病菌だとか、悪い食べ物とか、悪い空気とかに見ないで、それらに冒されるのは体そのものに弱いところがあるからだ、体そのもののはたらきが不円滑になることがその原因だというのでありまして、体のはたらきの不円滑なる理由を或る人は脊椎、或る人は腹、或る人は腰、或る人は四肢に求めているのでありますが、それらを通じて同じなのは或る部に触知し得る変が内部の異常に応じて現われ、それを解除する為にその操法を行なっているということであります。触知し得る変とは、硬結、弛緩、硬直、転位、圧痛等であります。

そしてその解除は生理的なはたらきを調整し、以て自然癒能力を誘掖(えき)発動(力を貸して導き動きを起こす)せしむるというのでありまして、従って人体を分解的に見る解剖的立場から人体を観る(内臓中心医学)ことと少しく異った立場にあって人体を見て居ることが判ります。それ故、今の学問的ではないのでありますが、頭で考え造られた医術が病気を生きている人間の裡から見ることを忘れてただ外からそれとして眺め、これとして病人の裡に生きて動いている病気を見ないでいることに対し、別箇の立場を主張しているのであって、分析のみが科学でなく、生命の科学として綜合的観点に立って手技療術が行なわれているのであります。

  西洋医学は科学的に発展したものです。科学とは「物質的因果関係を探求するもの」ですから、病気になった時、西洋医学ではどのような「外」の物質に因ったものか、という考え方をするものです。

 また、病気が外に因らずとも、臓器や組織の機能的・器質的変化をのみ見るもの(これは人間の外を見ること)で、師の説く「裡から見る」ことではないのです(裡とは、病気になっている「身心全体の事情」を意味している)。

 師は明治以来の手技療術が、「療法の数」だけの発展に止まり、内容的向上がなかった理由として、西洋医学の解剖生理に準拠しようと努力していたことを挙げ、整体操法制定の仕事をともに行った、療術家たちの議論の様子と身体観について、次のように述べています(『野口晴哉著作全集第三巻』全生社)。 

整体操法とは何か 制定委員長報告

血液か神経かとの論議だけで一カ月もつづいた程で、私が中身の吟味は問題でない、ただ生命の報告に基づいて操法するだけだという休戦地帯を提出する迄は、いつ果てるか判らない程に激論が交わされていたのである。

 

しかしそれらの人の話をきいていると、その言うところは相違はあるが、人体を一の全体として感じ、常にその全体としての体に対して操法しているのだということが判った。それは決して分解分析による解剖的人体観ではない。生きて動いて絶えず変化している人体そのものを観ている。それ故この人々が、その考えを今の(西洋近代医学の)解剖的生理に結びつけようとしていることに無理があるのだ、新しい人体観が之らの人の意見には息吹いている。それで私が吾々は解剖的人体観を捨てなければならない、そして吾々の立場における新しい人体観を樹立しようと計ったので、ヤッと各委員がその解剖的論拠を捨てて一致したのである。

  師は、制定委員各氏の多様な操法理論を、「生命の報告に基づいて操法を行なうということに於ては一致している」と、その中に在る普遍性を捉えました。

 翌1944(昭和19)年7月、整体操法の基本型が制定され、その趣旨は「生命の報告によってその要求に基づいて操法する手指の技術」、また「人の感受性を利用して自然良能を促進せしめる手指の技術である」と要約され、その対象は「生きて動いて絶えず変化している人体そのもの(動的生命観)」とされました。

 そして、整体操法とは「手で体を整えて健康を恢復する方法が日本に於て綜合研究され、日本化した技術による療病保健の技術」であると定義しました。こうして師は、諸療術の体系化を図る整体操法をまとめ上げました。

 同年10月、整体操法普及の為、第一回整体操法講習会(東京・水道橋にて)が開かれましたが、折しも太平洋戦争さなかの東京は、11月以降空襲を受けるようになり、当時の道場(下落合)も被災し、師は新潟県への疎開を余儀なくされました。

 こうして、全国的な手技療術の標準型となるはずであった整体操法ですが、翌1945(昭和20)年8月の第二次大戦敗戦により、その実現は叶わぬものとなったのです。

 師は、その後の1947(昭和22)年1月、整体操法の指導者育成機関として『整体操法協会』を設立することになり、制定委員会の主要委員の多くは、この会の活動に引き続き参加していたようです。

 しかし、この後師は、治療ということに対する他の療術家との考え方の相違 ―― 病症の消失を速やかに行なうための治療は、人間を丈夫にするという観点からいうと間違っている=「治すことと治ることは違う」、という師の見解 ―― から、それまで行動を共にしてきた多くの療術家たちと袂を分ちます。

 そして病気を治すことよりも、人間本来の力を引き出して健康に導く自らの活動を「体育」 と位置づけ、「治療」を捨てることを決意したのです(野口晴哉公式HPより)。

 こうして、1956(昭和31)年5月、文部省認可の「社団法人 整体協会」が発足し、新たな思想の下に、師の活動が始まりました。