野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第五章 東洋宗教(伝統)文化を再考して「禅文化としての野口整体」を理解する 二 5

 今回も前回から続く内容です。

 腰・肚というと、一度身体的にできてしまえば完成するとか、固定的なイメージを持つ人もいるかもしれませんが、保持力や鍛錬度には個人差、レベルの違いもあり、心の深層に降りていく通路、魂との統合に向かう道筋としては一生変化が続くものです。

 それでは今回の内容に入ります。

5 西洋人が捉えた「肚・身心一元」の意義― 西洋の神と東洋の仏をつなぐ 

 幕末からの近代化により、イギリス・ドイツの近代的軍事教練を取り入れたことで衰退の一路をたどり、敗戦によって喪失した「腰・肚」文化が、日本の「道」を支えるものでした。

 3で紹介したデュルクハイムは、帰国後の1954年に著した『肚 ― 人間の重心』の中で、日本の伝統文化に通底する「肚」が、西洋人の心を蝕(むしば)んでいる心身二元論を克服できることを論じています(蝕むとは、暴力性や心身の病の因(もと)となること。三で詳述)。

 デュルクハイムは同著で次のように述べています。 

序章

西洋の生活形式はその豊かさの限界にきている。合理主義の知恵も終わりにきている。人間は、本質発見と意味づけの新しい道を開拓しない限り、内面的にも外面的にも、どうしようもない状態に投げ込まれている。

…ノイローゼ(神経症)の背後に、人間一般にかかわる問題が潜んでいることが、今日次第に明らかとなっている。すなわち、成熟の問題である。成熟ということを最も深い意味で理解したとき、それは病人にも健康な人にも同じことを意味している。

それは、人間を自己の本質へと徐々に統合していくことであって、その点で人間は人間存在そのものに関与するのである。ノイローゼの人とは、成熟が特別な形で妨げられている人のことである。

未成熟は現代の癌である。成熟することができないことは現代の病である。

  デュルクハイムはすでに半世紀以上前、西洋の心身二元の問題点に対して、日本の「肚」が一元性を探求するものであることを紹介し、西洋の神と東洋の仏をつないでいたのです。

『肚 ― 人間の重心』の解題を引用します。 

…日本滞在は1937年から47年までの十年に及ぶが、デュルクハイムにとっては革命的な意味をもつ年月であったと言えよう。日本人の生活に関心を持ち、特に日本人の心の持ち方に興味を抱いた。そして西洋人の心を蝕んでいる心身二元論に橋渡しをする心の持ち方をその中から得ようとした。

特に禅仏教の研究を通して、坐禅キリスト教の伝統の中で生きる西洋人にも意義深いことを発見し、1948年以降マリア・ヒッピウス博士(デュルクハイム夫人)と共に、西独のシュヴァルツ・ヴァルト(黒い森)に開設したトットモース・リュッテ実存心理学的教育センターの治療法の一つとした。

 坐禅と並ぶもう一つの治療法は、これがデュルクハイム独特のものなのであるが、彼が研究と体験からあみだした「身体療法(ライプテラピー)」である。

この分野では、人間が所有している「肉体(ケルパー)」と、それこそが人間そのものである「身体(ライプ)」とが区別して取り扱われている(註)。

…ここで言う肉体とは、直接、医学に関わるもの、病気とか、痛みとか、死に関係すること、したがって健康とかスポーツの能力等にも関係すること(=客観(近代)的身体)であるが、身体とは、人間の行動や身振り全体の中にあるもの、表現し、提示し、実現したり、し損なったりするものである。

 身体は私そのもの(=主体的身体)であるから、身体を与えられている私が、身体の中の「本質(Wesen)」に対して透明(無心)になるとき、私は異常のない状態となる。

 したがって、「身体療法」とはマッサージではない。自分の態度が間違っていることに気付くこと、正しい態度を見いだすこと、正しい姿勢を見いだすことである。この正しい姿勢をとり、不動の姿勢で坐り、無念無想となって、すなわち根本から無になって、「本質」と出会う用意をする修行が坐禅である。

 (註)ドイツ語のケルパー・ライプは、ともに体を意味するが、ケルパーは「物」としての体を意味し、ライプは主体的「身体」を意味する。

 

 右の文中で、デュルクハイムが「肉体(ケルパー)と身体(ライプ)」と用いているのは、私が用いる「肉体と身体」という言葉の使い方と同様と思います。

 日本の伝統的身体(「腰・肚」による身体)では、人間の中心は丹田にありました。西洋近代での人間の中心は、「理性」のはたらきをする大脳皮質のある「頭」で、その持ち物が肉体です。

 洋の東西を問わず、中心とは「魂」のことで、「魂が肚にあるか、頭にあるか」という違いが、東西の身体(心身)観の相違なのです。そして、これが本書における「近代科学と東洋宗教」という対比となりました。

 西洋では、人間の中心(魂)は「頭・理性」にあり、近代科学は、理性によって自身の体を対象化し、客体として捉える「心身二元論」に基づいています。

 東洋では、人間の中心(魂)は「肚・丹田」にあり、東洋宗教は、気を通して、体と心の一元性(身体性)を探求する「身心一元論」に基づいています。

 心身二元論では人間の意識が理性に偏って発達することで、自身の感情が自覚できない(=意識で捉えられない)ものとなるのです。

 この無意識化された感情(のエネルギー)が自身を支配する(=自我の主体性を奪う・コンプレックス)という問題点に対して、身心一元性を探求する方法が必要となることから、デュルクハイムは日本の道・「肚」を持ち帰ったと、捉えています。