野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第五章 東洋宗教(伝統)文化を再考して「禅文化としての野口整体」を理解する 三 3

3 日本人の「意識と無意識の分離」と「道」の喪失 

 デカルトに始まった近代合理主義哲学は、意識から、感情や感覚、身体(無意識)を切り離し、「理性」を発達させてきました。

こうした理性により、客観性を重視する近代科学は発達したのですが、科学的世界観が心の深層にある「無意識」の存在を無視して発展してきた(註)ことにより、社会に神経症や精神病という心の病気が広がってきたのです。

 これに対処する臨床的立場から生まれてきた実際的な研究(無意識の研究)が、医師であるフロイトユングによってなされたのでした(深層心理学の発達)。

(註)近代合理主義哲学により、「心とは理性」となったことで、理性以外の心が「無意識」となった。

  日本では師野口晴哉が、近代医学が最も発達した時代に野口整体の体系を築いたのです(この少し前、ユングと同時代に中村天風師の存在があった。師野口晴哉フロイト精神分析をとり入れている)。

 意識が理性に偏って発達することでの「意識と無意識の分離」は、個人における「内なる関係性」が失われることですが、それにより、日本人なりの「自我の確立」と、社会の科学的発展があったのです。

 日本の近代化とは、西欧に定着している合理主義と民主主義の背景を十分に検討せずに、欧米の社会的な仕組みと方法論をそのまま輸入したものです。

 特に戦後教育においては、伝統的に日本人を支えてきた「道」の価値観が失われており、かといって西欧的な主体性のある「自我」を育てるわけでもありませんでした。そうして、現代の日本では、若い世代に「どう生きていいのか分からない」という人が増えています。

「自分探しの旅」などという言葉は、伝統的な「身体性」を喪失してからの言葉であり、「心身」が二元となっているからです。「頭にある心が自分で、体は体」というように自分と体が離れているのです。それで、本当の自分とは?と探そうとするのです。これが、体が「客観的身体」となっていることです(第三章一 2 ・3)。

 敗戦後の科学教育のみに育った現代の日本人は、「私」の理解に困り「私」の扱いが上手くできなくなっているのです。

 日本人において、感情や無意識(体)から意識(理性)が離れることになったのは、理性至上主義教育のみならず、心(感情)を体で表現するという、伝統的な日本の「型」による行儀・礼儀作法が廃れたことも大きな原因です。

 日本的伝統では、「腰・肚」文化(型)による統一体(自然体)という「身体性」が、高度な身体感覚を養ってきたことで、「自分の心」に向き合うことができていました。

『病むことは力』終章で「日本の身体文化を取り戻す」としたことは、今では「科学の知」に対して、「禅の智」を取り戻すことという意味である、と断言できます。かつての「肚」を具えた日本人には、このような問題(自分探し)がなかったからです。