付録 「心を考える」は流行でしかない 2①
2 からだ言葉
① 身心一如
最近は、三十代の方が多く当道場を訪れるわけですが、日本人的感性が変わってきていることを痛感するのです。
日本には、昔から「からだ言葉」(体の一部を使って感情を表現する言葉)というものがあります(中巻第一章で詳述)。「腹が立つ」「へそまがり」「逃げ腰」「肩身が狭い」……。身体の部分を使った言葉のことです。日本人は「からだ言葉」で、その時の気持ちを表現してきました。
その中に「溜飲が下がる(註)」という言葉があります。最近は、若い人でこの言葉を知る人はいないというほどで、感覚を通して理解している人も少なくなっています。
(註)溜飲が下がる(りゅういんがさがる)
不平・不満・恨みなど、胸のつかえがおりて、気が晴れること。
実は「溜飲」というものが身体の内にはあるのです。その部は鳩尾(みぞおち)です。怒りという感情が身体に作用して鳩尾が硬くなるのです。「溜飲が下がらぬ」ということは怒りが収まらない状態で、気の固まりができていて落ちないわけです。
意識(頭)では怒ったことを忘れても、身体には残っている場合が多くあります(怒りが潜在し、持続している)。
余談ですが、炭酸飲料を飲むとゲップが出るでしょう。あの時、ちょっと鳩尾が弛むのです。腹が立った時に飲んでゲップを出すと、少し怒りが収まるかもしれません。
話を元に戻します。今でもよく理解されている言葉で「腑(ふ)に落ちる」があります。逆に「腑に落ちない」というのは、今で言うと「分からない」という意味です。「腑」は五臓六腑の腑で、人は納得すると、気が腑に落ちて丹田に力が入るものです。
「溜飲が下がる」も「腑に落ちる」も、これは「気」による身体的な感覚です。現代は、これらの言葉を身体感覚(身体の状態についての感覚)で理解できず、頭で「分かる・分からない」と判断してしまうのです。
つまり現代では、この言葉を精神的にのみ理解していますが、伝統文化が共有されていた時代は身体的な面が優先していました。「日本人の身体感覚」とは、気による心と身体が一体(身心一元)なものだったのです(心と体が一つであることは、気の感覚を通じて理解されていた)。
伝統的な「身心一如」の文化をもっとも端的に表したものが「からだ言葉」です。「気は心と体をつなぐもの」、野口整体の指導では心の現れであるこの身体的実体(溜飲などの気の固まり)を、目で観、手で触れて観察しているのです。