野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

付録 「心を考える」は流行でしかない 3

3 野口整体は心と身体を丸ごと観る

  野口整体における「整体である」という意味には、「敏感である」ということが含まれています。敏感とは過敏ではありません。過敏というのは、実は鈍感が隠れています。ある一点に集中しすぎることが過敏で、そうなると他が疎かになり、鈍感ということになります。

「体から心が離れると鈍くなる」とは師野口晴哉の言葉です。心と身体が全体的に調和している人は「敏感」で、周囲のさまざまな出来事に柔軟に対応できるのです。

 しかし今の若者は、健康や心に関心が高いにもかかわらず鈍感なのです。「自分とは何か」、「自分の心はどうなのか」、そんなことに過敏になっているのですが、そのことばかりにこだわっているから、周囲に反応できない(主体的に関われない)のです。

「心を頭で考えている」彼らは、からだ言葉という素養(たしなみ)がないから全身で納得できないのです。自分の心と身体を一体とする感覚が身についていませんから、「身心」が一丸となっての「心の力の発動」、つまり「感情力」というものが乏しいのです(明治以来の西洋化による「身体性」の衰退)。

 師は「心と体は同じもの」と、繰り返し説きました。

 西洋医学の医師の中には「病気の70パーセントは心が関係している」と言う人もいますが、師は100パーセントだと言われていました。

 私は「天才・野口晴哉」だからそう断言できるのだと思っていましたが、師が亡くなり自分で研究を続けていくと、師の言葉が実感できるようになりました。それは、からだ言葉が証明しているのです。

 しかも、師が論じたずっと以前から、われわれ日本人のご先祖は心を身体で感じることを会得していたのです。

「頭痛」というものがあります。これは、昔から「頭痛の種」という言葉があるように、種(原因)があるから頭痛が起きるのです。しかし、現代では頭痛薬を飲むことが一般的です。

 たまにはいいのですが、飲み続けると薬の害が出てくる場合があります。種があるから芽が出て実になって症状として現れるのです。薬を飲むことは実をもいでいるだけで、種を取り除くことではありません。根本的なアプローチをする必要があるでしょう。

 原因は人間関係かもしれないし、自分自身かもしれません。それをきちんと感じることが必要なのです(これが「養生」というもの)。

 つまり、野口整体というのは、心と身体を丸ごと観ていくことなのです。心も「整体」にする、そういうことを師から学んだのです。

 私は物事の根本を突き詰めたい性格だから野口整体に反応したのだと思います。