野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二部 第一章 二1 整体とは「自己治癒力」の喚起― 正常×異常という「対立」を超える 生命哲学・野口整体

二 活元運動を通じて自然(じねん)を理解する― 野口整体の生命観・自然観の現代的意義

 症状がなければ健康、あれば病気。不快な症状はコントロールし、消し去るもの。こういう考えが相当に浸透しています。

 これは医療技術や薬の開発が進んだことで実現できるようになってきたことですが、厳密な意味での医学的知見と医療が離れていくことにもなってきました。

 例えば発熱は、医学的にも生体防御反応という正常な反応とされており、野口整体だけが言っていることではありません。現に、インフルエンザなどでの鎮痛解熱剤の服用が心臓などに悪影響を与えたり、死亡につながる場合もあることは、医学的には指摘されているのです。

 しかし、熱が出たら病態が悪化する、と不安になる人はかなりいるのです。その不安が鎮痛解熱剤の処方を増加させている面があり、医療側を責めるだけでは解決しないと思います。何よりも、一般の人の理解が進むことが大切です。

 それでは今回の内容、二の1に入りましょう。

1 整体とは「自己治癒力」の喚起― 正常×異常という「対立」を超える

生命哲学・野口整体

 私は第一部第五章(一 2)で、津田逸夫氏の紀行文「ヨーロッパ事情」を引用し、4で「対立を生み出す大本には、人間自身の『理性』と『それ以外』という『二元』状態がある」と述べました(理性を霊魂とした「霊主肉従」という思想・霊肉二元論)。

 これはそのまま、西洋医学の医療の在り方と重なります。

 明治以来、私たちは病症について、西洋医学の「正常と異常」という二分法的な見方に慣らされて来ました。

 症状が無いのが正常で、あるのが異常という「病症観」により、病症を経過するというのではなく、薬物により病症(異常)を止めてしまう=無くなったとして、これで「健康」を取り戻したと考えるようになりました。

 このようにして、科学(二元論)的思考が、日本人の潜在意識に根付いて行ったのです。科学の理性至上主義(=理性とそれ以外という二元状態)は、「対立」を無意識に生み出し、病症を「対象化」して捉えるのです(客観的身体観)。

 そうして、人工的な手段がどんどん発達して来ましたが、果たして「病気」は増え、「病人」も増え続けています。最近では、医師の中には、根本的に何かが間違っている、と感じている人も多くなっていることと思います。

 2002年6月、絶版となっていた師野口晴哉著『整体入門(1968年初版)』が文庫化(筑摩書房)され、続いて同じく文庫化された『風邪の効用』(2003年2月)と合わせ、2011年末には販売部数が四十万部に迫るものでした。

『風邪の効用』には、「病症を経過する」という思想が著されています。「病症を経過する」とは、たとえば風邪を引いた時に、後頭部の温湿布や足湯(または脚湯)などによって発熱を円滑にし、症状を経過するというものです。

 そして「風邪を引くことは、疲労で硬直したり鈍くなったりした体を調整、再活性化する役割を果たしている」と、風邪が自律的なはたらきであることが述べられています(病症は、生命を活性化させるための合目的的作用)。

 直木賞作家の伊藤桂一氏は、『整体入門』の解説「潜在する自己治癒力」(224頁)で次のように述べています。

…整体につながっている人たちは、風邪を引くと「風邪が引けてよかった」と思う。なぜなら風邪は、それを整体的手当で経過させた時、実に爽快で、新たな生命力の充実を感じ、思わず「風邪よありがとう」といってしまうほどだからである。そして、日々の生活と取り組み、疲れは活元運動でほぐしてゆく。ことに偏り疲労を調整してゆく。

…整体では「全生」という言葉を信条としている。整体的に生きていれば、死ぬ時も苦しまない、という考え方である。死ぬ時なぜ苦しまないかというと、与えられた生命を完全に燃焼し切れば、苦しむ必要がないからである。

死の直前まで、生き生きと仕事ができる。何年も、身体不調で寝込んでしまう、という厄から免かれたいのは人情である。そのため、整体を知っている人は、つとめて整体的な生き方(つまりは死に方)を心掛けている。

…整体は、生命を励ます健康の哲学だからである。この本には、その原理が、わかりやすく説かれている。

整体では、治療とか治病とかいう言葉は使われていない。人間は自分の力で自分の症状を癒すので、整体操法者は、その潜在する自己治癒力の喚起を手伝うのである。

…巷間に整体の名を謳う幾多の療術と、野口晴哉先生の整体法とは、よほどの相違のあることは、私のこの小文でも、おわかりいただけるのではないか、と思う。

 師野口晴哉の「整体」という思想は、「病気をなおすのではなく、身体をなおすことが先決だ」というものです。実は、この「身体」という言葉に深い意味があるのですが、治療における「病気を治す」というのは「肉体」に関することであり、肉体というのではない「身体をなおす」という言葉の意味を、体験を通じて理解することが肝要です。

 これは、第一部第五章(二 5)で紹介した『肚 ― 人間の重心』の解題での、「ケルパーとライプ」と同質の内容で、ここで表現されている「ライプ」とは、肚つまり「丹田」を認めるところの身体の意です。解剖的身体(死体)には見受けられない「気の医学」により認識される部位を持つ、生きた身体のことです。

 身体(ライプ)が治れば自然(じねん)に病症は経過するのです(「身体の中の本質に対して透明(無心)になるとき、私は異常のない状態となる。」これが自然治癒力である)。

 肉体(客観的身体)ではない、身体(主体的身体)を整えることが整体法なのです。