野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二部 第三章 二2 スポーツとは違う野口晴哉の「本来の体育」

2 スポーツとは違う野口晴哉の「本来の体育」

 師野口晴哉は1969年5月の活元指導の会で、近代的な体育(スポーツ)の問題点について、次のように述べています(『月刊全生』)。

本来の体育

 今まで体操のほとんどは大勢の人が一緒に意識して同じようなことをやるというものでした。そういうことが体育というものだというように考えておりました。

 しかし人間の体は使い方がみんな違うのだから疲れ方もみんな違う。発達もそれぞれの使い方によって偏っているのだから、本当の意味での体育としての体操ならば個人個人は違う体操をやらなくてはいけない。

…意識して動かし得るのは手とか足とかいうある限られたところで、人間の体の大部分は意識しないで動いている。…手や足でも、歩く時に左足を出して、そして右足を出してと言うように考えて歩いてはいない。歩こうと思ったら歩いてしまう。

…駅などで人を観ていると、寄りかかっている人もいれば、しゃがんでいる人もいる。それぞれいろいろな体の休め方をしている。…体は意識しない内に自分の疲れた処を都合の良いように休めている。…それは、疲れの内容がみんな違うからなのです。

…ちょうど欠伸やくしゃみと同じように、体が疲れてきたり異常を感じたりすると無意識にそれを戻そうとして動きが出てくる。…だから、今までの体操のように意識して努力して同じことを同じように繰り返すといったものと、この活元運動は全く違う。

 今までの体操は個人個人の体育としては極めて不適当なもので、それは体を動かすということをいろいろ面白くやるためにスポーツとか競技というようなものを混ぜてやりだしたからです。

…体に無理をしてでも頑張ってしまうとかいうように、競技にするためや、面白く動くということの方ばかり追求して、本来の目的である体を育てるために動かすということがだんだん放り出されてしまっている。

…だから体操がだんだん体育以外の目的に使われるようになってきた。そうして体育以外の目的で組み立てられた体操やスポーツを体育だと信じているために、自分の体の裡の要求にそって動かして、意識しないで一人一人違うように動くという活元運動が何か体育以外の不思議なことのように思われてしまったのです。

 しかし体育本来の目的に立ちかえって考えれば、これは不思議どころか最も合理的な体操なのです。

…意識して動かしている間は、意識して動かせる範囲しか動かせない。胃袋や腸だけ余分に動かそうとかいうようなことは難しい。しかし体育としての体操なら、肺でも心臓でも胃袋でも、自由に動かせる運動でなくてはならない。

 そうするとやはり無意識に動く活元運動というものを考えなくてはならない。

 

 意識を基礎とした西洋・近代スポーツと、無意識を基礎とした野口整体の体育・活元運動という相違です。

 錐体路系(外界感覚 → 脳 → 運動器官(第一部第三章三 7参照))を主に訓練するスポーツに対し、錐体外路系を訓練することが「本来の体育」である、と説くのが師野口晴哉の思想であり、その行法が活元運動です。

 右引用文の言葉「胃袋や腸……肺でも心臓でも胃袋でも、…」に従って解釈すれば、活元運動は自律神経系の運動でもあります。

(近藤・ここで真田さんが初めて参加した日から9年後(2015年)に書いた手記が入るが中略。)

 外部の評価を得ようと、意識がはたらいていること自体が科学的(意識が外に向かっている)であり、身体から「理性の支配を外す」ことが活元運動を行う初歩の目的です。

 そうして(意識が裡に向かう=頭がぽかーん・脱力)、無意識による生命の秩序回復がなされるのです(無意識とは混沌ではない)。

 頭が本当に「ぽかーん」とすると、自ずと活元運動が出てしまう(無心に近づき、錐体外路系の動きに身を任せる)という体験をするまでが、第一訓練段階です。

 活元運動は、行なおうとする意思は必要なのです。しかし、意思(頭)で動かすのではない、欠伸やくしゃみのように、体の「要求」によって動くもの(反射運動)、ということを意識で理解できるまで進むと良いのです。

(補足)

 記事中で中略した真田さんの手記には、

…自身の運動を他人(特に指導者)が見ても、好ましいものであるように、上手に運動をしているように見える人の模倣をしたり、本に出ている写真を見たりして、とにかく、誰が見ても「良い活元運動だ」といわれる運動を身につけようと思案していました。

という部分があり、金井先生はそれを「外部の評価」と言っている。