野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二部 第四章 一2 科学には「自分のことを考える智」はない

 河合隼雄は『宗教と科学』の中で、「心の病は主観の病であり、深層心理学は主観を対象とする科学」と言っています。しかし、多くのおとなは「客観的な自分」=自分だと思っていて、自分が主観的だとはあまり思っていません。

 しかし、本人が思っている「客観的な自分」の意見や考えというのは、多くの場合「主観(感覚・感情)に無意識的に支配された意見や考え」であり、さもなければそれは「他人の(または科学的な)考えや意見」なのです。

 そういうわけで、主観の歪み、バイアス(偏り)に気づく=自分のことを考えるというのはなかなか難しいのですが、河合隼雄はその理由として理性の発達と科学の影響を挙げました。それが今回の引用文の内容です。この部分を読むと、私が音読し初めて金井先生と一緒に読んだ時に見た、先生の深く感じ入っている顔が今も思い出されます。

2 科学には「自分のことを考える智」はない

 ユング心理学深層心理学)を日本に普及させた河合隼雄氏(臨床心理学者)は、近代以後発達した、科学的観察を行う主体としての「近代自我(理性)」について、次のように述べています(『宗教と科学』Ⅱ いま「心」とは)。

2 心と自然

 自然科学による自然の支配の強さは拡大されて、西洋の文化は全世界を支配するほどになったと言っていいであろう。

…近代自我はすべてのものを支配するほどの強力さを誇るようになったが、そこには大きい落とし穴があった。それは自と他を明確に区別し、他を観察することによって出来あがってきたものなので、そのシステムには「自」というもの、あるいは、自分の心(主観(感覚・感情))というものは除外されている。実際に、それが除外されているからこそどこでも誰にでも通用する法則を見出したのだが、それでは、そのシステムによって、自分の心のことをどう考えるか、という場合にそれは答をもっていないのである。

 第一部第三章(二 1)で、湯浅泰雄氏の「生命の目的とか意味や価値について問うことは科学の任務ではない」という言葉を紹介しました。この「生命の目的とか意味や価値について問う」ことが、「自分が生きることについて考える」ことであり、そうすることで自分とは何かが深まって行くのです。科学にはこのような問いはないわけですから、この一点だけでも、科学には「自分のことを考える智」はないのです。

 さらに、科学の発達により客観的思考が人々を無意識に支配するようになった結果、「自分の心」である「主観(感覚・感情)」というものが分からなくなってしまったのです。

 それで自身の内において、理性と感情の分離(=自我と自己(魂)との分離)が起きているのです。科学的社会を生きる上で必要な自我意識・理性のはたらきは、同時に自身の主観(感覚と感情)を切り離し、欲求をも抑えるはたらきとなるのです。

 教育の場では「感情」は良くないものと扱われ、大学では、意見を述べる場において、「…と思います(感情)」は駄目、「感じます(感覚)」は論外とされ、主観の発達が望めないのが科学的教育です。

 同じく第一部第三章(三 3)で、「デカルトは、理性によって、自分の「心」を捉えることができると考えました。」と述べましたが、このような近代合理主義哲学の問題点に対して起って来たのが、フロイトに始まる深層心理学です。

 理性的思考とは客観的思考と言い換えることができますが、近代自我とは客観によって成立しており、主観が排除されたものなのです(デカルトの言う心(理性)と河合氏が述べている心との相違に注意)。

 傍線部の内容は、鈴木大拙氏の「真の自己を把握したいと念願するのならば、この科学が追求する方向をいっぺんヒックリ返さなければならぬ。……〝自己知とは主と客とが一体になって初めて可能なのだ〟…。(第三部第二章二 5)」を参照再読すると理解が深まると思います。

 整体指導者が身体に触れること、それは、手で心に(直接)触れることであり、個人指導での臨床心理は、「身体そのものである心(潜在意識)」にアプローチすることに特質があります。

 個人指導における臨床心理による智と、活元運動、そして正坐(また椅坐)や歩行時における「型」の把握、これら身体行により「主体的自己把持」へと進むことが整体指導の目的です。