野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 後科学の禅・野口整体  第三部で紹介する三氏と「禅思想」

 今回から第三部に入ります。以前紹介した内容もあるのですが、改めて全文を掲載することにしました。

野口整体は禅である」というのは、私が塾生になるかなり前から金井先生が言っていたことです。しかし「理解できる人はなかなかいない」とも言っていました。禅と言うと、みなあの面壁九年というような、坐禅をすることだけを連想するのですが、禅の世界観、禅的なものの観方は、日本の衣食住、芸事や術などの文化の中にも生きています。

 そして、金井先生は、野口整体を現代に説く上で、鈴木大拙が善を海外に向って説く上で取った手法に関心を持つようになりました。そうした関心が元になり、この章ができたのです。

 では内容に入っていきましょう。 

第三部で紹介する三氏と「禅思想」

 第三部は、第二章の鈴木大拙氏(1870~1966年)による「東洋と西洋のものの考え方の相違から禅を説く」という視点を主として、「野口整体の道を考える」ものとなっています。

 東西の相違を知る上で重要なのが第一章です。ここで取り上げるドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(1884~1955年)は、西洋で失われた「内なる霊性の自覚」へ至る道(神秘主義)を求めて日本の禅に関心を持ち、1924(大正13)年、東北帝国大学・哲学講師として仙台に赴任しました。

 そして、禅に少しでも近づけるならばと、弓道修行を行いました。また、ちょうどヘリゲル滞日中に出版された、英語による鈴木大拙著『禅論文集』(1927年)にも大きな影響を受けました。

 鈴木大拙氏は、近代科学と理性の限界を見据え、これを超える智としての「禅思想」を欧米に向けて初めて説いた人です。

  禅は本来、言葉や文字に信頼を置かず、坐禅などの修行を通じて、言葉を超えた本質へと直接的接近を試みようとするものです。それは、宗教行為の中で最も大切な、自己の中の「霊性の自覚」や「悟り」だけに価値を置くという、例外的な宗教なのです。

 言葉や文字に信頼を置かないというその特質により、伝統的な禅は、「思想」というものを断固と拒絶してきました。しかし12年に及ぶ米欧での生活を体験した大拙氏は、「世界的見地において、禅にしっかりした思想がなくてはならない」と考え、禅は大拙氏によって、初めて思想の衣を帯びることになりました。

 これは、禅を西洋に伝えるという氏の使命感、および情熱がなしえた偉業と言えるでしょう。ここに大拙氏の新しさ、氏が切り拓いた禅の新境地があるのです。

 ヘリゲルが日本での弓道修行を基に著した『弓術における禅』は、第二次大戦後の1948年ドイツで出版され、西洋に「禅とは何か」を伝える書として浸透していきました。そして、大拙氏とヘリゲルの著作は禅の指南書となり、1960年代、米欧で禅ブームが起きたのです。これは、この時すでに、米欧では近代科学と理性の限界を超える智が求められ始めていたからです。

 しかし日本では、私が師野口晴哉に入門した1967年当時、高度経済成長の最中で、まだ、そのような時代ではありませんでした。

 本書では、現代日本人の身心、また社会に起こっている問題の奥には「近代科学と理性の限界」があることを、一部、二部を通じて述べてきました。その限界を超えるために必要な、思想としての「禅」(これが「後科学の禅」の意)を説いたのが鈴木大拙氏です。

 野口整体が生まれたのは、日本の近代化(西洋の近代科学文明を取り入れること)を通じてのことですが、鈴木大拙氏が世界に伝えた禅も、近代化を経て再編された新しい仏教でした。第三章では、その気運となった日本仏教の近代化について述べていきます。

 明治新政府神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するため、神仏分離令を発布しました。これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動(「仏を廃し釈尊の教えを毀す」暴動)が起きたのですが、それは江戸時代からの、民衆の仏教者に対する反感からでした。こうしてこの時代、仏教は衰退の危機に見舞われたのです。

 このような状況を打開するため、日本仏教界の先進的な人々は、新しい仏教の構築を模索し始め、江戸時代の旧弊(第三章二 2②で詳述)を脱し、仏教が近代的に生まれ変わる必要があることを痛感するようになりました。

 大拙氏の禅師であった釈宗演師はその急先鋒であり、1893年アメリカのシカゴで開かれた史上初の万国宗教会議で、日本仏教界代表として演説をすることになりました(貞太郎(後の大拙氏)が師の演説の英訳を引き受けた)。

 当時、世界で最も近代化が進んだシカゴでは、科学技術の進歩による貨幣経済ダーウィンの進化論によって、キリスト教は衰退の危機にありました。

 こうした社会背景の下、アメリカのキリスト教界は、キリスト教威信回復のための、絶好の機会として「万国宗教会議」の開催を推進したのです。

 宗演師は、この会議を「仏教東漸(とうぜん)」の機会と捉え、伝統仏教から脱却した近代社会に合致する、新しい普遍宗教としての仏教の可能性を提示することを試みました。

 こうして、東洋・日本の仏教が西洋に伝わることになりましたが、この仏教の近代化への試みが、後に大拙氏が、世界へ向けて「ZEN」を発信する契機となったのです。この「世界の大拙」が生まれる機縁を生じさせた時代と、その生みの親・釈宗演師の軌跡を辿り、近代以後に必要な宗教性とは何かについて考えます。

 野口整体の思想基盤には禅があり、野口整体を体得する道筋としては勿論のこと、野口整体に携わるには、禅を理解することが求められます。このため第三部には、論理を超えた深い内容が含まれていますが、本書(『野口整体と科学 活元運動』Ⅰ・Ⅱ)の内容を理解するための締め括りとして、時をかけて精読して頂きたいと思います。

オイゲン・ヘリゲル(1884~1955年)

ドイツの哲学者。ハイデルベルク生まれ。1924(大正13)年5月、東北帝国大学哲学講師として来日し、仙台に居住する(1929年(昭和4年)8月まで)。

1926(昭和元)年春から妻と共に、東北帝国大学弓術部師範であった弓聖・阿波研造(1880~1939年)に弟子入りをし、弓道修行に打ち込む。帰国する頃には、師より免許皆伝・五段の免状を受けるまでに至る。

鈴木大拙(1870~1966年)

仏教哲学者。本名は貞太郎。石川県金沢市生まれ。東京帝国大学哲学科選科に学び、鎌倉円覚寺臨済宗)の今北洪川、釈宗演に師事。1897年アメリカに渡り「大乗起信論」の英訳、「大乗仏教概論」の英文出版を行う。1909年帰国後、学習院教授を経て大谷大学教授となり、英文の仏教研究雑誌「イースタン・ブッディスト」を創刊。戦後は米欧の大学で講義を行い、仏教や禅思想を広く世界に紹介した。

1949年文化勲章受章。1966年95歳で死去。著作に『禅と日本文化』(岩波書店)など多数。

釈宗演(1860~1919)

臨済宗の僧。若狭国高浜(現福井県大飯郡高浜町)生まれ。今北洪川の法を継ぐ。慶応義塾に学び、セイロン(スリランカ)に留学。のち円覚寺派建長寺派の管長を兼務。明治26年シカゴでの万国宗教会議に出席し、初めて米欧に禅を紹介した。その後も鈴木大拙と共に世界に禅を喧伝した。夏目漱石徳富蘇峰らが参禅し、大正期に禅ブームを巻き起こした。臨済宗大学(現・花園大学)学長。