野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 二3 欧米人の理性と日本人の身体性(直観)

3 欧米人の理性と日本人の身体性(直観)

 さらにヘリゲルは、ヨーロッパ人と日本人の「精神的起原」の相違について、次のように述べています(『日本の弓術』)。

…日本人は、ヨーロッパ人に分かる国語を用いて自分の思うことをヨーロッパ人に理解させようとする時には、ヨーロッパ人がともかくまったく違った精神的起原を有しているのだという事実を見落としてしまう。日本人はヨーロッパ人の物の考え方にまだまだ通じていない。ヨーロッパ人の問題の出し方にも通じていない。それゆえ日本人は、自分の語る事をヨーロッパ人としてはすべて言葉を手がかりに理解するほか道がないのだということに、少しも気がつかない(日本人は欧米人に分かるように、言葉や論理によって説明することができない)。

 ところが日本人にとっては、言葉はただ意味に至る道を示すだけで、意味そのものは、いわば行間にひそんでいて、一度ではっきり理解されるようには決して語られも考えられもせず、結局はただ経験したことのある人間によって経験されうるだけである。日本人の論述は、その字面だけから考えるならば、思索に慣れたヨーロッパ人の目には、混乱しているというほどではないにしても幼稚に見える。

 ところが、われわれヨーロッパ人がそれについて考えを述べると、日本人は逆に、ヨーロッパ人の悟性(物事を判断・理解する思考力)の鋭さは別に羨ましいとは思わずそのまま認めるとしても、ヨーロッパ人の考えには「精神がこもっていない」(退屈だ)というほどではないが直観に欠けている、と考えるにちがいない。

 それは欧米の研究家の仏教のみならず禅に関する研究を吟味する時、きわめて広い範囲にわたって認めざるをえないことである。じじつ欧米人にとっては、原文に頼ってこれを翻訳し、注釈を施し、試験ずみの哲学的方法によって処理するほかなすべきことがない。欧米人はこれだけやってしまうと、科学的に検討し尽くされた原文がこれで本当に把握されたと思いこむ。

 しかしそのような妄想に反して、そこにはその上何事もまた何者も現われて来ない。言葉を無上のものとして崇拝するヨーロッパ人の考え方に突き当たると、意思疎通のどんな可能性も破壊されてしまうのである(言葉や論理ですべてが理解できるという、欧米人の態度は、神秘を理解する上での「壁」となる)。言葉に言い表すことのできない、一切の哲学的思弁の以前にある神秘的存在の内容を理解することほど、ヨーロッパ人にとって縁遠いものはない。

 すべての真の神秘説に関しては経験こそ主要事であり、経験したことを意識的に所有することは二の次であり、解釈し組織することは末の末であるということを、ヨーロッパ人はわきまえていない。神秘説を把握するには自身神秘家になるほかにどんな道もないことをヨーロッパ人は知らないのである。

 ことに禅の神秘説に多大な関心を持ち、真に体験としての理解(学術書のみでは、その周辺にしか立ち入ることができない)を求めていたヘリゲルは、西洋哲学と東洋のそれとの大きな相違は、理論ではなく、身体行による「内的な気づき」によって真髄を会得(=体得)するところにある、と理解しており、やがてその体得が進むのですが…。

 そして、ヘリゲルは自身の経験した修行の内容に入る前に、西洋人の聴衆に次のように語りかけました(『日本の弓術』)。

…私はあなた方を刺戟するのではなくて鼓舞したいのである。仏教に関する文献の単なる字義の理解だけでは、仏教の本質、わけても禅の本質に、したがって禅にその神髄を求めるべき日本のもろもろの術の本質には、一歩も迫りえないということを、あなた方に悟らせてあげたいのである。

 それは、私がここに弓術(道)の本質を叙述するのではなく、それをあなた方の心眼に髣髴と現わそうとすることによって達せられると思う。そのため私は、自分が日本滞在中に最大の師範の一人に就いて行なったほとんど六年(事実は三年数か月。三 1で詳述)にわたるこの術の稽古の有様の、もちろんほんの暗示にとどまる程度ではあるが、大体のあらすじをお話ししようと思う。

 このさい特に取り立てて詳しく述べなければならないと思うのは、私がこの高尚な術の精神を究めることができるようになる前に、まず内心の抵抗、なかんずくあまりにも批判的な心の持ち方を克服しなければならなかったということである。そのような話し方で、おそらく理解の一つの道を拓くことができるであろう。もちろん一切は内的な経験に懸かっていて、これが他人にも分かち与えられるように、言葉をもって伝えることは私にはできない。

 後にヘリゲルは、「批判的な心の持ち方」を克服したのですが、それは、論理主義を滅却することで、心の持ち方をすっかり改めたのです(三 1で詳述)。