⑥四年後
こうして始めてから四年後、ようやく「矢がひとりでに離れる」ことを会得したヘリゲルは、六十米先の的を射る段階(『新訳 弓と禅』訳注(18)(五四頁)には、六十米は正しくは二八米とある)に入るのですが、彼は、また「的に中てるには弓をどう持てばいいか」を尋ねました。
師は、「的はどうでも構わないから、これまでと同様に射なさい」と答えますが、彼は「中てるとなればどうしても狙わないわけにはいかない」と返しました。すると師は「いや、狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままに…」(『日本の弓術』)
と答え、師は手本を見せます。その後のことを、ヘリゲルは次のように記しています(『日本の弓術』)。
二
…先生は私に向かって言われた。――「私のやり方をよく視ていましたか。仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいてくるように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。
的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢が中心に在る――これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。
それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中てます」――私は先生の言われた通りにやってみようと試みた。しかし言われたことの幾分かしかできなかった。的をまったく視野から去ること、したがって狙いを定めるのを諦めるということは、私にはどうしてもできなかった。
…以前小銃や拳銃の射撃をやったことがあるので、やはり「命中弾」を数える癖がついていたのではないか。それがおそらく自分でも気がつかずに、私のうちに残ってはたらいていたのであろう。
いくら熱心に稽古をしても、悲しいことには的には中たらなかった。先生は私が焦(あせ)るのを難じた。――「中てようと気を揉んではいけない。それでは精神的に射ることを、いつまで経っても学ぶことができない。あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考え出すのはたやすいことである。
あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、私というこの精神的な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう」――先生はこう言って私を戒めた。
師の「的を狙わずに射中てることができる」という言葉に対し、ヘリゲルはもう技巧で解決しようとはしませんでしたが、精神的な意味の射手にもなれませんでした。小町谷氏は当時の師とヘリゲルについて、次のように述べています(『日本の弓術』)。
ヘリゲル君と弓
的前の射をやる時には、先生は的に当てようとしてはいけない。また中てようとして放してもいけない、とかならず注意した。百発百中は凡射であり、百発成功は聖射である、すなわち百発ともに、目に見えない正しい心の体得に成功するということが、孔子のような聖人の射であると説いた。これもヘリゲル君にははなはだ不可解なことであった。
ヘリゲル君には、弓は的を射るものである。的が目的物である。射るからには、その目的物に当てることを考えなければならない。弓は意識的に射るものであるはずだ。当てようと思わない射、当てようとしない離れ、すなわち意識的でない射があるなぞということは、嘘だとしか思えなかったのである。
そうして彼は私に、日本人の物の考え方は、西洋人とおそろしく反対だと言い出した。ヨーロッパ式な考え方をしていたのでは、ことごとくが不可解である。…とも言った。
そして、ヘリゲルは「これほどの熱心な骨折りもついに実を結ばずに終るということが、私の心を重くするようになった。」と述べています。