野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 三4「新版への訳者後記」について考える

4「新版への訳者後記」について考える

『日本の弓術』の訳者・柴田治三郎氏(1909年生)は、同著(単行本初版一九四一年)が文庫化されるにあたり、1982年4月に記した「新版への訳者後記」で、『弓と禅』の原稿について、次のように述べています(『日本の弓術』の原稿を「初稿」と記し、『弓と禅』の原稿を「決定版」と記している)。

新版への訳者後記

…決定版が小町谷先生に送られて来た時、先生はそれを私のところへ持ちこんで、翻訳しないかと言われた。私はそれを一読して、初稿に接した時に覚えた驚きと、ほとんど感動ともいうべきものとは、違った印象を受け、これは禅をまったく知らず哲学にも疎い自分には理解の及ばないものだと考えて、丁重にお返しした。

…初稿の第二章に見られる著者の体験の簡潔直(ちょく)截(せつ)な描写は、決定版においては、数倍も詳細に敷衍され、哲学する著者の省察の叙述になっている。日本の弓道家ならば、おそらく一言または一挙動をもって表現ないし暗示しうることが、ここでは百万言を費やして説明される。

…また、五年間の日本滞在中にせっかく日本的な非論理的・神秘的な実践者になりえた著者が、戦中戦後のドイツで、不当な苦難を負わされて生活する間に、ふたたび元のドイツ哲学者に戻って、はるかに遠い日本での修業の場面場面を反芻し、日本的な論理飛躍の過程を、かえってドイツ的な論理の連続として基礎づけずにはすまされなくなったようにも見える。

 この引用文始めに、柴田氏は東北大学教授として、大先輩である小町谷氏に対する敬意を表していますが、後の方では、「決定版」に対し「数倍も詳細に敷衍され」と、批判的な気持ちを強く持ったことを表しています。

 この点、私も同様の気持ちを持ったのですが、後に、欧米の人に対しては、このように表現することが必要なことである、とも思ったことをお伝えしておきたいと思います。

 ヘリゲルは日本からの帰国(1929年)後すぐ、エルランゲン(オーストリアと接するドイツの最南東部バイエルン州北部の都市)の大学正教授となり、第二次世界大戦終了時の一九四五年には、同大学の学長となっていましたが、ドイツ敗戦直後の事情で、彼の新築間もない住宅はアメリカ軍に接収され、多数の貴重な財物を略奪されました。

 そして終戦直後は副学長に、翌1946年1月には正教授に降格され、1948年に引退しました。『弓と禅』のドイツでの出版は、その頃1948年です。

 1951年、彼はエルランゲンを引き揚げ、南のオーストリア国境近く、アルプス山中の町ガルミッシュ・パルテンキルヒェンを隠棲の地としました(体を悪くしていたという事情もある)。

 この後(のち)ヘリゲルは、パンション・ハウスの質素な間借り生活で、1955年4月18日までの余生を送ったのです。

 福村書店版『弓と禅』の訳者・稲富栄次郎氏は、東北帝国大学での師ヘリゲルを、終の住処となったガルミッシュに訪ねた時のことを、同著で次のように記しています。

ヘリゲル先生の思い出

1953年10月10日の朝、…ミュンヘンからガルミッシュに向かう車中にあった。

…私が次々と展開する窓外の美しい景色に恍惚としている内に、列車は三時間の快走を続けてガルミッシュに着いた。

 初めて見るウィンター・スポーツの町、ガルミッシュ・パルテンキルヘンは、静寂そのもののような、輝くばかりに美しい国境の町であった。…一刻も早く恩師の姿に接したい。

私はあたふたとハウス・アントニーベルグに車を走らせた。それはごく簡素なパンション・ハウスで、六畳くらいの二階の二室が博士夫妻の居間である。22年ぶりに見る博士の姿には、さすがに歳月の経過は争われない。だが昔に変わらぬ温顔に笑みをたたえながら、固く私の手を握って、非常に喜ばれた。夫人も心から歓迎して下さった。

博士が日本を去られたのは、確か昭和4年(1929年)の7月だった。当時神戸にいた私は、西村旅館に、出港間際の先生を訪れた。…私は一別以来20余年の身辺の移り変りをかいつまんで話した。博士は…やむなくガルミッシュに隠棲した顛末を語られた。

…また自分の教え子を想い起こしては、…「高橋ふみ(註)嬢も気の毒なことをした」などと、感慨深げに語られていた。

(註)高橋ふみ 禅哲学者・西田幾多郎の姪で、女子教育が軽んじられた時代、石川県の女性として最初の東北帝国大学生。西田哲学と日本文化をいち早くドイツに紹介した、日本最初の女性哲学者。

…談たまたま日本文化のことに及ぶと、博士の態度は急に熱を帯びてきて、「日本における六年間は、自分の生涯で最も楽しい時であった」と語られた。すると傍の夫人もまた相槌をうって、「日本の食べものは何でもおいしい。ソバがたべたい」などと言われた。そして二人して、「ドイツ人に限らず、ヨーロッパ人は日本について余りに無知である。いや日本人自身でさえ、日本について無知である」と付け加えられた。

 私が敗戦後における日本の実情を語ると、「残念だ(schade!)残念だ」と繰り返されるのだった。聞けば博士は、エアランゲンでは、主として日本思想について講義し、教室はいつも大入り満員であったということである。

 現在の博士の哲学的関心についてお尋ねすると、きっぱりと「それは日本の禅だ」と答えられた。そして「ついこの間、ニューヨークから鈴木大拙博士が来られて、一日大いに談じたが大変愉快であった」と語られた。

 八十三歳の老躯を提げてはるか南独の田舎町まで足を運ばれた鈴木博士の元気には感激の外ないが、博士(ヘリゲル)の日本思想に対する情熱にもまた頭の下がる思いだった。…

 この日私は夫人から心づくしの晩餐をいただき、ガルミッシュの美しい景色をあとに、ミュンヘンに帰った。いよいよお別れする時、博士は“ガルミッシュ・パルテンキルヘンにおける君の来訪を記念して”と署名して、近著“弓道における禅”(Zen in der kunst des Bogenschiessens)を贈られた。

 その時私がこれを日本語に翻訳してあまねく紹介したいという希望を述べると、博士は快く承諾して下さった。(この後、稲富氏は上田氏とともに翻訳し、1956年、協同出版社より出版)

 古田紹欽氏編『鈴木大拙全集 第三十巻』の年譜には、「1953年7月、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダを旅行し、パリにて講演す。」とあり、この地に、鈴木大拙氏がヘリゲルを訪ねられたのは、この時のことであったと思われます。

『新訳 弓と禅』には大拙氏の英語版・ドイツ語版『弓と禅』序文(マサチューセッツ州 イプスウィッチにて 1953年3月)が添えられています。また、ヘリゲル夫人グスティは、日本での生活で培った「生け花における禅の精神」の内容を著しましたが、大拙氏はここにも序文を添えています(『生花の道』)。