野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 四 1 禅の精神「身心一如」と「坐」の生活

四 禅の本質の中に生きていた日本人

 金曜日が開いてしまい申し訳ありません。今回から四に入ります。4は、もともと金井先生が月刊MOKUという雑誌に連載をしていた時の原稿でした。月刊MOKU連載は、私が先生とともに取り組んだ最初の仕事でしたので、とても思い出深い内容です。

 それでは今回の内容に入ります。

1 禅の精神「身心一如」と「坐」の生活

 ヘリゲルは、日本人の生活と禅とのつながりについて、次のように述べています(『日本の弓術』)。

鈴木大拙氏はその著『禅論集(禅論文集)』の中で、日本文化と禅とはきわめて緊密な関係にあること、日本のいろいろな術、武士の精神的態度、日本人の生活様式、道徳的・実践的ならびに美的方面はおろか、ある程度までは知的方面においてさえ、日本人の生活形態は、その根底をなす禅を無視してはまったく理解することが不可能だということを、証明しようとしている。

 鈴木氏ならびに他の日本人研究家の著書は、欧米の日本に関する文献に反響を与えなかったわけではない。しかしわれわれのこの方面の知識は、いちじるしく拡げられたにもかかわらず、われわれの認識は、残念ながらそれと並んで成長したとは言われない。日本人は、自分でそれを説明できるかどうかは別として、禅の雰囲気、禅の精神の中で生活している。

 それゆえ日本人にとっては、禅と関連することはすべて、内面から、禅の本源から、明瞭に理解される。ちょっとした指示を与えさえすれば、何が問題の中心であるかということが、日本人にはただちに把握される。考えていることを言い表し、伝えようとする時、日本人には簡単な暗示だけで申し分なく事が足りるように思われる。

 それは、日本人は禅のもっとも深い本質の中に成長していて、身に着いたものを頼りにして考えるからである(禅は「身体性」を高度にし、そのため直感がはたらくことを意味する)。

 このような生活の基盤を成していたのが「坐」の生活でした。この時代(戦前まで)の日本では、「正坐」という坐の型が、一般庶民の生活の中に溶け込んでいました。坐は、腰と「肚」を鍛えて生活するという「禅の精神」を培う役割を担っていたのです。

「正坐」による心の落ち着きと静けさから生まれる「場」に、日本人は「神性」を感じ、その身体に「仏性」を見いだしてきたのです。

 坐により心が鎮まっていることで、高い「身体感覚」が生じ、その身体感覚を保持して生活するというのが、ヘリゲルの言う「禅の精神の中で生活している」ということであったと思います。

 日本では、禅の「不立文字・教外別伝(註)」の教えに見られるように、教典を持たず、身心一如をもたらす「型」と、これによる「身体感覚」を共有すること(共通感覚)によって、「神仏」は坐による身体に在ることを、代々伝えてきたのです(「道」と「腰・肚」文化の継承)。

 また「直指人心・見性成仏(註)」の教えにより、自己の心を深く見つめることを正坐により伝えてきました。

(註)不立文字・教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)

 経典を基準にせず、坐禅を通じて釈迦の「悟り」の体験を自らの身心において追体験しようとする努力が大切である(=文字として固定された理論に捉われると仏教の根本精神を見失う)。「あらゆるものに仏性がある」ことを説いた教典を、単に知識として知っているだけでは本当にわかっているとはいえず、自分自身が仏であるという自覚と働きがなければ知っていることにはならない。このため坐禅をするのが「不立文字」の意。

 仏教の真髄(禅)は、文字や言葉では伝えることができず、心から心へと直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意。ゆえに教外別伝とは、教えの外に別に伝えがあるのではなく、師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることである。また、師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない、とするのが「教外別伝」の内容(一 3参照)。

直指人心・見性成仏(じきしにんしん・けんしょうじょうぶつ)

 坐禅を通じて、人間の心というものの本質について、自己自身の内に向かって端的に問うことが「直指人心」である。自己の本性を体験することによって、仏陀の心に通ずる人間となるの意。

 人心とは、本心(仏性)というもので、心の中に具わる仏心を指し示すのが直指で、自分の心の中にある「仏性」を直ちに観てとれという意が直指人心。直指人心によって真の人間性を自覚し、自己の内なる仏性を実現する(自分が、ほんとうの自分になる)ことが「見性成仏」である。

 坐禅は釈迦の悟りの体験を自らの身心において追体験しようとするもので、仏陀の心に通ずる人間となることが目標なのです(禅とは、仏陀の教えを信ずることではなく、仏陀となることが目標。「一日坐れば、一日仏に近づく」)。

 

 栄西(日本臨済宗の開祖・1141年生)は悟りの境地を「心身一如」と表しましたが、とりわけ、身を先立てた道元(日本曹洞宗の開祖・1200年生)は「身心一如」と表しました(道元は、徒に悟りを追い求めず、只管に坐禅する、只管打坐の禅を伝えた)。

 道元は、『正法眼蔵』(弁道話)に「生と死は別のものではなく一体であり、体も心も一体である。」という意味を著していますが、「生死別ならず」と説いた師野口晴哉の「整体」とは、身を先立て調心することで、道元禅に通じるものです。

 また、臨済宗の開祖である臨済義玄禅師の「随処に主と作(な)れば、立処皆真なり」という言葉がありますが、これは「その場その場に全生命を打ち込んで行動していくならば、そこがかけがえのない真実の世界となる。」という意で、野口整体の「全生思想」はここにも通じています。