野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 四4「無心」を主題とする禅的な日本の精神修養の道筋、 野口整体を思想として著す意味― 論理だけでは理解できない「体と心」についての思想

4「無心」を主題とする禅的な日本の精神修養の道筋、野口整体を思想として著す意味― 論理だけでは理解できない「体と心」についての思想

「無心」を主題とする禅的な日本の精神修養の道筋は、「不立文字・教下別伝」の教えのとおり、実生活の中での経験と実践によって培われるものであったために、それが理論的に説明されることはありませんでした。

 しかし野口整体では、心(精神)と身体を一つのものとして捉え、「正坐の効用」を、背骨(頚椎~仙椎)の状態から説明することができます。且つ「無心」を、体を整えることによって体現することもできます。

 野口整体は、元来の日本の伝統「修行・修養・養生」に根ざすものであり、それを精神論に偏ることなく、「不易流行(註)」としての思想と行法を、体系的に成立させたものであると言うことができます。

 野口晴哉という人物と、野口整体を産み出した日本の文化、その源にあった日本人の感性に深く感慨を抱く想いです。

(註)不易流行

 いつまでも変わらないもの(不易)と、時代に応じて変化するもの(流行)を一つにまとめあげること。社会に当てはめれば、よき伝統を守りながら(不易)進歩に目を閉ざさないこと(流行)によって「理想」を創造する。別言すれば「温故知新」、歴史を踏まえ(不易)、現実を踏まえて(流行)、未来を思考することである。

 この日本で完成したといわれる禅、その「無心」の体得こそ、日本文化の基盤であり、ドイツ人ヘリゲルも、そして現代の日本人も、容易には近寄りがたい核心なのです。ここに近づくには近代的精神は邪魔となるのです。

 近代的精神とは合理主義・科学的思考であり、その中の、とりわけ批判精神が障害となり、理性をそのままに「無心」を体得しようとすることは、意識して眠ろうとすることに似ているのです。

(弓術そして禅では「呼吸」が大切なこととなるが、「腹(肚)で呼吸する」ということは、非科学的なことであり、「行」を通じて体得し初めて分かる。三 1①参照)

 本章で扱った『日本の弓術』、『新訳 弓と禅』は、ギリシア語・ラテン語をはじめヨーロッパのあらゆる言語を習得し、カント哲学の正統な継承者を自認する、第一線の論理主義者(ドイツの、徹底的に合理的・論理的な精神の持ち主)であったオイゲン・ヘリゲルが弓の修行を通して、彼の論理主義を滅却し(言語と論理の限界を突き抜け)、無の境地に至る求道の物語です。

 この内容は、むしろ現代の日本人、それは敗戦後七十年に亘り伝統文化を切り捨て、かつ科学教育のみに育った(=西洋化した)人々にとってこそ、きわめて意義あるものと確信し、「無心」を主題とする禅的な日本の精神修養の道筋、野口整体を思想として著した ―― しかし「体と心」についての思想は、論理だけでは理解できない、それは身体性でこそ理解できるという ―― 本書の括りとなる第三部の第一章に活用した次第です。