野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第二章 一 西洋思想(科学)を相対化し、禅を英語(科学の言葉)で語る

 金曜日が開いてしまい申し訳ありません。今回から、第二章一に入ります。重要なテキストとなっているのは鈴木大拙の著書で、西洋的なものの観方の代表を科学、東洋的なものの観方の代表を禅として対比させて論じるのが鈴木大拙氏が禅を西洋に伝える方法でした。大拙氏が禅を西洋に伝えたことで、日本人が禅の価値を再発見したと言えるでしょう。

 現代の日本人は、もはや東洋的な感覚やものの観方よりも西洋的な感覚や物の見方に近く、この章を読む時は、東洋人という立場より科学と西洋の立場に自身を置いていく方が得るものは多いかと思います。鈴木大拙は東洋的な観方とは何か明確に論じた稀有な人でもあり、自分は日本人だから東洋的だという先入観を持たずに、ビギナーズ・マインド(初心)で読んでみてください。

一 現代において必須な禅の思想― 西洋の「科学の知」を補う日本の「禅の智」

 西洋思想の根底・二元論は「知性」が故であり、この知性は「理性(概念的思考能力)」に拠っているものです。(知性は知るもの「主」と、知られるもの「客」に分かれる)

 近代西洋文明・科学を生み出したキリスト教は理性の宗教であり、この基となったギリシア哲学とは、理性を至高とする考え方(人間の理性を信頼すること)によって成立したものです。(こうした西洋思想の歴史を通じて発達した「科学」は理性至上主義)

 科学の発達とともに人間の側に生じた革命とも言える「近代自我」の発達(第一部第五章一 4参照)、この自我のあり方(理性を拠り所とする個人の意識)が、欧米において壁に突き当たっているのです。

 西洋の歴史は、中世のキリスト教中心(この時代は個人がなかった)の価値観から、近代では「自我の確立」へと進んで来ました。しかし現代では、これが人間性の喪失をもたらし、心を病む人が増加するという矛盾が発生しているのが実状です。これは、近代化を遂げた日本においても同様です。

 自我の発達は必要ですが、鹿の角のように大きくなり過ぎたのです。それで西洋では、“自我”を修正するため、禅の“無我”を取り入れ、「新たな自分の存在を見出す」という転換をしようとする人々が増えてきたのです。(これが西洋人の、坐禅に取り組む意義)

 日本においても、健全な自我(意識・心)とはどのようなものかが分からなくなっている傾向が顕著です。それは、敗戦後「道」の精神が失われ、教育において、理性至上主義となったことで意識の発達が偏り、日本の伝統である無我・無心を全く知らない人が多くなっているためです。

 ここからは、西洋に禅が広まった礎を築いた鈴木大拙氏の歩みと、氏が切り開いた「禅の新境地 ― 禅を米欧に伝える(=東洋的観方が理解される)上で、しっかりした思想がなくてはならない」について述べていきます。